天智こと百済皇子翹岐(ヒョーギ)の双子の妹間人王女。かろうじて同父の子供たちの結婚を認めていた古代でも同母兄妹の結婚はみとめられていない。従って天智と同母妹の間人との男女関係は世間の非難の的であった。乙巳の変(大化の改新)後軽皇子(孝徳天皇)が即位し、天智は皇太子になった。間人は孝徳皇后になったが、天智と孝徳が不仲になり、天智は難波長柄豊碕宮から皇極、間人、多くの官僚を引き連れて明日香に戻ってしまう。しかし孝徳の次も天智ではなく皇極が斉明天皇として重祚する。斉明の死後も、間人が中皇命として一時的に天皇となり(6年間)、またもや天智が即位できなかったのは天智と間人の不倫関係が大きな理由だった。そこでついに天智は間人を殺す。665年2月、間人は53歳だった。
京丹後市に間人海岸がある。これをたいざ海岸と読む。6世紀末、蘇我氏と物部氏との騒乱を避け、聖徳太子と母の穴穂部間人皇女が丹後町に身を寄せた。村人たちの手厚いもてなしへのお礼としてみずからの名「間人」を残した。村人たちは間人皇女が退座したことにちなみ「間人」を「たいざ」と読んだと言い伝えられているそうだ。皇族に同じ名前はありえないといわれているし、聖徳太子は実在しないとの通説である。とすると聖徳太子の母間人は天智の妹間人その人ではなかっただろうか?間人は天武天皇によって中皇命として天皇に擁立されたと言われている。天武と間人の間にも額田王や鏡王女と同様の男女関係があったのではないだろうか。丹後町を訪れてひとときの慰安を共有したのは天武こと大海人皇子と中皇命こと間人王女ではなかったか?