古代日本を作ったのは、高句麗大将軍淵蓋蘇文こと天武天皇、百済王子翹岐こと天智、百済貴族大沙平沙宅智積こと藤原鎌足である。3人とも悲惨な最後を遂げている。天智は暗殺され、鎌足は落馬事故で寝たきりの挙句合併症で死去、天武も4人の息子たちに暗殺された上に高市天皇に墓を暴かれ、頭蓋骨を取り去られて再度埋葬される憂き目に遭う。その首なし遺体が埋葬されていたのが高松塚古墳である。
しかし藤原氏の天下が来る。不比等は同母姉の双子元明・元正との間にそれぞれ娘をもうけ、孫の聖武に繋げる天皇として二人ともに天皇位につけ時間を稼ぎ、遂に聖武天皇を即位させた。不比等の三女宮子と天才歌人柿本人麻呂との間にできた不倫の子である。
そして平安時代の摂関政治で「望月の欠けることなし」と言う全盛期を迎える。以来1300年以上にもわたり、公家をはじめ神官・武家と多くの氏族を輩出し絶えることなく政治に関与して来た。このような現象は世界にも全く類例がない稀有なできごとである。
天皇に使える公家は右を見ても左を見ても藤原氏ばかり。近衛家、九条家、一条家、二条家、鷹司家の五摂家を筆頭に、日野、三条、花山院、大炊御門、中御門、持明院、京極、中院、冷泉、西園寺、小倉、洞院、徳大寺、閑院などさまざまな名字を名乗るようになった。
藤原氏の子孫は、平氏以来の長い武家政権の中で、日本の上流階級として踏ん張って来た。天皇と同じく武家のように君臨せずにきたからこそ絶えることなく脈々とその血筋を伝えて来たとも言える。最後は天武でもなく天智でもなく鎌足が勝ったのだ。