54 実の息子はいなかった

2024年03月24日 09:55

実の息子に恵まれなかった鎌足

 藤原不比等は鎌足の次男と言われているが、不比等の実父は天武天皇、母は天智の異母妹鏡王女である。鏡王女は天智の妃だったが、身籠ったまま、天智から鎌足に下賜された。ところが驚くべきことに、鏡王女が身籠っていたのは天武の子であった。万葉集の鎌足の歌も鏡王女の歌も、その事実を語っている。いわばその時代の公然の秘密だったと思われる。
 もう一人孝徳天皇も鎌足に身重の寵妃阿倍氏を与えている。生まれたのは貞慧、鎌足の長男である。11歳で唐に渡って学んだ学僧だった。23歳で帰国したが、その年の暮れ、天智の手のものによって殺される。金を出し渋った鎌足に対する天智の嫌がらせであった。これも鏡王女や天武の息子志貴皇子の歌がものがたっている。この事件をきっかけに、鎌足は天智を見放し、天武勢力に加担することになる。そして殺された貞慧が帰国途中に寄った新羅で土地の女に産ませた子が柿本人麻呂である。世が世なら人麻呂は孝徳天皇の孫だったわけである。江戸時代の書かれた『人丸秘密抄』に「人丸=人麻呂軽からず」とあるがまったくもってその通り、高貴な血筋に生まれた人麻呂は、成人後日本に来てスポークスマンとして官位を得た。盟友鎌足の孫を迎えて天武がとても喜んだという記事が『日本書紀』にある。
 実の息子に恵まれなかった鎌足。しかし藤原家の血脈は連綿と続き、世界に例を見ない閥族として現在まで続いている。近衛家、九条家、一条家、鷹司家、の五摂家が藤原氏を継承している。公家の最高位である「関白」「摂政」も五摂家により幕末まで継承された。例外は関白秀吉と甥の秀次だけである。戦前までは、皇太子妃は皇族または五摂家出身者に限るという不文律があった。戦後三度総理大臣を務めた近衛文麿も藤原氏一族である。

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