56 元明天皇はなぜ遷都したか

2024年03月29日 19:28

平城京遷都は柿本人麻呂の亡霊を避けるためだった


 柿本人麻呂は刑死した。斬首の後、水刑死。遺体も見つからない無惨な死に方だった。文武天皇が生きているうちは良かったが、文武が死ぬやいなや不比等は人麻呂を処刑した。不比等の同母姉元明天皇も寝覚めが悪かったのだろう。藤原京に夜な夜な人麻呂の亡霊が出るようになった。大臣の石上麻呂は「新たに大々的な即位式をあげましょう」と提案する。しばらく即位式の準備で藤原京は賑わう。だがその後は再び亡霊の声。「相対して戦おう、双子よ!」。元明天皇作万葉集1-76歌はその事実を明かす。亡霊の声に耐えきれなくなった元明は、文武と持統が造営した藤原京を捨てた。藤原京は東西5・3km、南北4・8km。平城京、平安京をしのぐ古代最大の都であった。649年から710年までのわずか16年で平城京に遷都とは、実に不自然ではないか。しかし亡霊の声に怯えた末の行動とあれば、納得できる。
 元明はさっさと平城京に遷都したが、姉の元正は藤原京と平城京を行ったり来たりして、文武との思い出深い藤原京を捨てられない。源氏物語では、元明は六条御息所として描かれている。生霊となって葵上(光源氏の正妻、モデルは石川刀自娘)を取り殺す女。対する元正は夕顔のモデルだが、夕顔は物怪に取り憑かれて死ぬ。物怪の正体は御息所であるという説がある。亡霊を恐れて早々に出来立ての素晴らしい都を捨てた元明を、紫式部は生霊・物怪として描いた。

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