148、一書曰近江天皇聖躰不豫御病急時太后奉獻御歌一首
青旗乃木旗能上乎賀欲布跡羽目尓者雖視直尓不相香裳
従来訓
148、青旗の木幡の上を通ふとは目には見れども直に逢はぬかも
真の 歌意
「青にやられた!」遺言なさる天皇を見つけ、駕籠を止めお乗せしましたが、すぐに息を引き取りました。まことにお可哀そうでした。
これは事故現場からのルポルタージュである。「青がそれだ!」。天智の最後の一言、絶叫である。天武=大海人は青龍を自認し、「青」は天武のシンボルとされてきた。一説によると、天智はある日外出したきり戻らず、山中に沓だけが残されていたという。『日本書紀』の第2代天皇綏靖紀に、天武による天智殺しの場面が記録されている。暗殺は時を得ず、クーデターは挫折、天武は出家し吉野に逃げた。(万葉集1−25)
万葉集2ー148の従来訓は「青旗の木幡の上をかよふとは目には見れどもただに逢はぬかも」。歌意は「木幡山の上を天皇の御魂(みたま)が往き来すると目には見えるけれども、じかにはお会いできないことよ。」となっている。作者の倭大后は、天智の兄である古人大兄皇子の娘とされているが、母は誰か分からず、生没年も不詳である。天智の死にあたって万葉集に4首の歌を残している。「天智天皇が病に倒れた際、大海人皇子(後の天武天皇)は倭大后が即位し、大友皇子が太政大臣として摂政を執るべきむね進言した。」また「天智天皇崩御後に倭大后の中天皇としての即位または称制があった」とする説などもある。倭大后、すなわち間人皇后であろう。しかし間人は天智によって殺されているので、天智の臨終には立ち会えないはず。誰かが間人になり代わり、倭大后の名で残した歌であろう。