27、天皇幸于吉野宮時御製歌
淑人乃良跡吉見而好常言師芳野吉見与良人四来三
従来訓
天皇の吉野の宮に幸せる時にみよみませる御製歌(おほみうた)
27、淑き人の良しと吉く見て好しと言ひし芳野吉く見よ良き人よく見
真の歌意
頭を下げて、持統が謝った。舎人皇子の生まれ落ちた吉野に来て、舎人皇子の顔を見れば、文武にそっくりではないか。仕方がない。不倫の子舎人を私の皇子に編入しよう。持統ほどのプライドの高い高貴な女性が私に頭を下げて謝ったのだから。
従来、「良き人の良しと良く見て良しといいし。吉野良く見よ良き人良く見。」という早口言葉歌とされているこの歌。強面天武が早口言葉の歌を詠んだとはとても思えないが、「吉野賛美の祝言性が溢れている軽快な歌」と言われている。誤読もここまでくれば、笑えない冗談だ。
天武天皇の吉野行幸は、天武8年5月5日の一回だけ。非常に重要な歴史的行幸だったことがよくわかる。天武は持統皇后、草壁、大津、高市、川島、忍壁、志貴皇子たちを集めて誓わせた。名高い「吉野の盟約」である。しかし舎人皇子の名はない。舎人はこの時3歳6ヶ月。「4歳を迎えようとしている3歳」だった。1−27歌の最後は「四来三」で終わっている。舎人の年齢を詳細に読み込んでいるのだから驚かざるを得ない。幼少の舎人を連れての吉野行幸だったが、舎人は盟約の場にいない。天武は、自身の血を引いていない者は、高市以外徹底的に排除している。高市は天智の息子だが、大友皇子を偏愛する天智に叛き、壬申の乱にあたり天武と親子の契りを結び、大いに活躍した。
では舎人は誰の子か。新羅第30代文武大王と持統の間に生まれた子である。文武は天武4年2月、新羅皇子忠元という名で初来日した。文武は、天武15歳の時、新羅大将軍金庾信の妹宝姫に産ませた長子法敏であった。法敏文武は天武と親子の対面をし、日本に渡っていた金官伽耶国建国者金首露の宝剣「草薙の剣」に祭祀を捧げ、さらに唐を撃退するために日本水軍の出兵を要請するという三つの目的のために来日したのだ。
持統は、筑紫の太宰府で文武を出迎え、初対面でたちまち文武と恋に落ち、舎人が生まれた。文武そっくりの舎人を前に天武は「見よ見よ」と絶望感を表している。