「雄略が死んで3年後、清寧天皇三年2人の皇子は名乗り出て大和に戻りました。清寧天皇の死後、兄弟で皇位を譲り合ったので、姉の飯豊青皇女が政務を取りましたが、結局先に弟の弘計が即位して顕宗天皇となりました。次に兄の億計が仁賢天皇として即位しましたが、兄弟は長く地方で苦労したため、民衆を大切にする政治を行なったと伝わります。」(『日本書紀』)
雄略=天武、清寧=文武、飯豊青皇女=仁賢天皇=元正A、顕宗天皇=元明。飯豊青皇女は「男勝りの性格」、「男性と関係を持ったのは生涯一人だけ」などと言われ正式な天皇には入らない兄弟の姉とされている。
飯豊青皇女が、生涯一度だけ男性と関係を持ったと言われるのは元正Aと沙弥満誓との夫婦関係を表したもの。満誓こと笠朝臣麻呂は優秀な官僚で、文武が媒酌の労をとったらしいがうまくいかなかったようだ。のちに、笠朝臣麻呂は、元正Aという逸材を見抜けなかった己の不徳を「万葉集3−391」で詠んでいる。
『日本書紀』の記述は万事このように、男性を女性に、一人の天皇をたくさんの人物に分散させたりして事実をカムフラージュをしながら、読む人が読めばわかる事実を散りばめている。事実に基づく虚構、すなわちファクションである。
『日本書紀』は舎人親王ら撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。『日本紀』ともいう。そもそもは、天武天皇が川島皇子以下12人に対して「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされる。