万葉集の中で片隅に追いやられた、冴えない存在の、しかも難訓歌とされていた19-4224。しかし実はこれほどの秘密文献もまたとないと思われる。それは重大な事実を詠ったものだった。光明子の父が文武であるという事実を。
光明子の父は文武天皇。母は金庾信の長男三光の娘である。万葉集の19-4224藤原皇后(聖武皇后光明子)の歌がそれを証明する。光明皇后が同行した聖武天皇の吉野行幸は計3回。聖武天皇即位直後、父文武の長年の住処であった吉野に行ってみたいと同行。そこで荒れ果てた吉野宮一帯を見て改装を決意、1年2ヶ月後の吉野2回目の行幸が改装祝賀も兼ねて行われた。
県犬養橘三千代は文武の子高安王を密かに産んでから、美努王と結婚。橘諸兄、橘佐為、牟漏女王(藤原房前の室)を産んだ。その後美努王と離別、藤原不比等と再婚した。不比等は三千代より6歳上。不比等の同母姉元明即位後、三千代は宮人筆頭として不比等と共に朝廷において強権を振るい、元明天皇から「橘宿禰姓」を賜って、名も道代から三千代に変えている。
720年61歳で不比等が死去したが、三千代は721年正三位に叙せられ、宮人として最高位に登った。733年死去し、従一位となる。死後27年も経ってからの760年、正一位と大夫人の称号を贈られた。光明子の実母としてはいかにも遅い追尊で、嫌々ながらの感さえある。それもそのはず、三千代は光明子の母ではなかったのだから。