7世紀日本の二つの大事件とは672年の壬申の乱と、681年の新羅文武大王の日本亡命だった。壬申の乱は、天武側と、天智の後継者とみなされていた大友皇子側との戦いである。大海人と額田王との間に生まれた十市皇女は大友妃であったが、大海人に情報を流していた。壬申の乱に勝利した高市皇子は、当然天智の息子である自分が天皇の座につくと思っていたが、天皇の座に着いたのは大海人=天武だった。
高市は古事記におけるヤマトタケルであり、日本の昔話「桃太郎」のモデルであるが、やがて他の皇子たちと謀って天武を殺し、天皇の座に着いた。彼こそが持統天皇である。天武天皇の皇后鸕野讃良(ウノノサララ)皇女を持統天皇と言っているが、彼女は書紀に曰く新羅征伐で有名な神功皇后でありあくまでも天武皇后であり天皇位には就いていない。書紀は高市皇子=持統天皇という事実をひた隠しにしているが、高市の子長屋王邸跡から天皇の子でなければ名乗れない長屋親王と書かれた木簡が発見され、高市皇子が天皇位にあったことを裏付けている。
一方、日本に亡命して文武天皇となった新羅文武大王は、韓半島の三国統一を成し遂げた英雄であるが、実は天武天皇こと淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)高句麗大将軍の長男である。ヨン・ゲソムンは故あって、新羅の貴族金舒玄(新羅大将軍金庾信の父)に預けられ、花郎(ファラン)であった金庾信の郎徒(ナンド)として武術訓練や学問の日々を送っていた。そしてヨン・ゲソムン15歳の時、金庾信の妹宝姫と恋に落ち宝姫は文武大王を産む。文武大王は、新羅の善徳女王の甥金春秋と結婚した宝姫の妹文姫との間の子とされ、やがて新羅30代文武大王となった。