絵ピソード

その73    万葉集の中でも最も有名で、わずか14文字の最短の歌。柿本人麻呂作1ー46。人麻呂は持統の息子草壁皇子の舎人でした。この歌の広大なイメージ、完璧な構図。草壁皇子の別名は日並知皇子。暁の空には日の出あり、残月あり、明星ありで、まさに日を並べる(ならべる)という日並知を連想させます。草壁皇子は暁の皇子です。草壁も暁も、ぴったり同音の「セビョク」。万葉集の漢字表記=万葉仮名は、まことに厳格で、根拠のない書き方は一字たりともされていません。
万葉人は、各自の誇りにかけ、学識と精魂を傾けて歌を詠んでいました。
    人麻呂はわずか14文字の歌の中に、「日・月・星・辰」をずらりと並べて象嵌し、「日並知」を表現しています。さらに「紅・東・白・西」と称される韓国古来の祭祀のご膳立て法になぞらえることができる漢字の並べ方をしています。祭祀は暁前の夜中に北に向かって行われます。両端に建てる蝋燭の炎を連想させるために「炎」という字を採用した念の入れ方に、驚嘆せざるを得ません。

✴️万葉集1ー46     東野炎立所見而反見為者月西

       従来訓        ひむがしの野にかぎろひ(陽炎)の立つ見えて
                        かへり見すれば月傾きぬ
       真の詠み     暁の星を数えていたら、明空に草壁皇子の
                        お姿を見かけた。ああ嬉しいと思っていると、
                        皇子は私にお気づきになり、 頷かれ、そして
                        消えて行かれた、、、、、 
 
   炎を陽炎と無理読みし、月が西に渡るを月傾きぬとして平気。古代人の歌詠みにかけた執念はいい加減なものではありません。よりにもよって天才人麻呂の作ではありませんか。
   若くして亡くなった草壁皇子に人麻呂は格別の想いを寄せていました。もしかすると人麻呂がこの歌を詠んだ時、安騎野では草壁皇子の法事が行われていたかもしれません。人麻呂は半島生まれの、鎌足の孫で聖武天皇の父親です。額田王と共に双璧の天才歌人でもあります。

その74 

✴️万葉集1ー1   雄略天皇=天武天皇

狛よ、瑞穂の狛たちよ。復旧の者たちよ。この丘に私は先代と並びたち、ここに家を造り告げて住もうと思う。新羅・百済・大和の国は押さえおきて、統治者は、私一人である。鎮めねかして私は自ら位に就く。私は急ぎ来て告げる。ここに来る、出てくると。

[この歌は、日本に住んでいる朝鮮系同胞に向かって、支持と団結を訴えた政治スピーチ、即位宣言です。それにもかかわらず、この歌がロマンチックな求婚歌に見えるのは、採択されている字句が、非常に美麗で、田園的雰囲気を伝えるからでしょう。]


✴️ 万葉集1ー10    中皇命

   仲違いして歯向かうから潰されるのですよ。やたらあちこち動き回って、変なことをすると叩かれますよ、といつも私が言ってたでしょ。一体どうやってこの問題を解決するつもりなの?伽耶の人は、今何人残っていると思う?

  [父孝徳天皇の恨みを晴らそうと憤懣やる方なく焦っていた有馬皇子。その憤懣を逆に利用され、謀反の罪に問われました。飛鳥で捕らえられた有馬皇子が紀の温泉=白浜温泉に引き立てられ、2日後には処刑されました。中皇命は間人皇后。間人はやはり天皇だったようです。]

✴️万葉集1ー15    中大兄皇子

  大海人が動き出した。同盟は崩れたので、伊理=蘇我入鹿一族を斬り果たそう。さあ、今こそ私の番だ。聳え出て頂上(王)を攻めよう。

[645年、飛鳥板蓋宮の太極殿で、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、蘇我入鹿を斬殺、その父蝦夷の邸宅を襲い、自殺に追い込みました。「乙巳の変」=「大化改新」と呼ばれています。この歌から当時の「王」は蘇我氏で、大海人は蘇我氏と連携していたこと、中大兄は「王」の位を奪う目的で、「乙巳の変」を起こしたことがわかります。]

その75   

✴️万葉集1ー25    天武天皇

   水の吉野へ行く(戦いが長引きそうだ)。 耳我嶺に出発しよう(胸が潰れそうだ)  。悲しくてどう行こう。また逢おう 。 無念でこのまま行ってしまえない。  ああ悲しい。  発つことにしよう。 ああ無念だ。  逢うことにしよう。   くまの季節がやってくる 。  重祚立つ 。  だから迂回しよう。

*重祚とは「軍兵、人材、財宝を得て襲爵したり官職を得たりするのに大吉である」というもの。三吉門と 三奇を合わせ、陰神の力も合わせた上で、九地に位置し、再び吉門に入ることを意味する。
                                       諸葛孔明の「奇門遁甲秘及法」より

[初めて天皇という称号を用い、初めて日本という国号を定め、初めて富本銭という貨幣を鋳造した天武天皇。赤毛、赤髭で、常に五本の刀を背負っていました。天武天皇こそ古代日本の基礎を作った英雄です。またの名を淵蓋蘇文=ヨン・ゲソムン。高句麗の大将軍であり大宰相であり、若き日には『金海兵書』を著した兵法家でもあります。陰陽道に優れ、国仙=ククソンとして早衣=チョイという武術集団を率いました。]

✴️万葉集1ー73    長皇子

     私は誓います倭の砂鉄で鉄作ることを。私は迎えるでしょう、貴方が王位に就かれる日を。その日に向けて鉄を焚くのです。海越え行きて。

    [長皇子は681年7月1日、日本に亡命した文武大王によって、新羅から呼ばれた鉄づくりのリーダーで、本名は元述=ウォンスル、新羅大将軍の金庾信の二男で、名だたるファラン=花郎=武士でした。文武は新羅太白山で鉄づくりをしていた元述ら一行を日本に呼び寄せ、製鉄・鍛治の新技術導入に乗り出しました。「倭有」=ヤマトアルは倭の砂鉄という意味。一方アルは韓国語で卵のことです。高句麗の始祖チュモン、金官伽耶の始祖キム・スロ、新羅始祖キム・ダルへ、キム・アルへはすべて卵から生まれたという伝説を持っています。つまりは建国者は、皆優れた製鉄事業者だということを表しているのです。]

✴️万葉集1ー75    長屋王

   お上が亡くなられたのだから、権力や財産を奪われても、耐え忍ぶしかない。すべて放棄しなさい。そうすれば配流や、裁判などわきまえてなさらないだろうから。

 [1988年9月、奈良市の長屋王邸跡から木簡約三万枚が発掘されました。その中の一枚に「長屋親王」と書かれてあり、学会に大きな衝撃を与えました。親王とは天皇の王子か天皇の兄弟だけを指す称号であったからです。長屋王は高市皇子の第一皇子でした。高市皇子が天皇に即位したという記録はありませんが、この木簡の大発見によって高市皇子は天皇だったということが証明されたのです。]

その76   

✴️万葉集2ー151    額田王

   出し抜けです。やりなおしたい。父親斬り刺しも、止められるから。しめゆいなさるな。(葬儀をしないで)

  [唐の後押しで、大津皇子が父親殺しの反乱を起こしたのは天武11年8月3日。反乱軍蜂起の報に接した天武は、その夜8時頃美濃から信濃を通る日本海ルートをとって逃げようとします。敵は待ち伏せていたものか、天武の一行と出会い、その戦乱の中で天武が没したのは8月5日。日本海沿岸の今の敦賀あたりで天武は落命しました。天武は610年生まれで、兄とされている天智は612年生まれ。天武天皇ことヨン・ゲソムン享年72歳でした。]

✴️万葉集2ー152    舎人吉年

   八島(日本)は知っている。若い大君らが、親御様を切り、お迎えの者も続けて刺し、早々に行かれたのを。唐の手先であるのを。

[天武天皇は大津皇子、高市皇子らによって殺害されています。万葉集は血みどろの歴史書です。1200年もの間、原意が全然解けずにいたために、却って生の歴史は歪曲されず、闇から闇へ葬られることもなく、ほとんど純然たる原文のまま今日に伝えられています。歴史のアイロニーとはこのことでしょうか。
   大津皇子や高市皇子の根城は近江一帯。日本を掌握しようとした当時の強大な唐の影が、黒々と浮かび上がる歌です。万葉集は歴史を明かすルポルタージュです。]

✴️万葉集2ー156    高市皇子

   お墓の土が乾いています。行かれるのですね、貴方は。すぐまたお会いできるようお祈りしましょう。毒を飲ませ、とうとう行かせてしまいました。  (水を追いやりましょう。行かれるのですね、貴方は。すぐ撃破するようお祈りしましょう。毒を飲ませ、とうとう火をつけてしまいました。)

[高市の残した超難訓歌。これは持統のライバルだった額田王の一子、十市皇女が何者かに毒殺されたことを暗示する歌であり、当時の殺伐とした社会状態が直に肌に伝わる迫力のある一首です。壬申の乱後の天武執権、天武暗殺後の大津執権、大津賜死による高市執権。この間常に政治をリードした女傑持統を余すところなく利用し、政権取りにこぎつけた文武。十市皇女は天智の息子大友皇子の妻。しかし壬申の乱では夫の敵であった父、天武側につき、鮎の奉書焼に密書を忍ばせて父に届けた逸話は有名です。高市が十市を毒殺した恐ろしい事実が、難訓歌であった故に抹殺されずに今日に残ったとは!]
 

その77   

    ✴️万葉集3ー265   柿本人麻呂

  苦しい。座り込んでお願いしようか。お上が逝かれたので佐野らが継ぐだろう。行こう。不比等も知っている。(裏読み)私の立場が苦しい。土下座して拝んで頼めば聞いてくれるか。お上が亡くなられたので泉佐野らが位を継ぐことになるだろう。だから京に行こう。不比等も了解済みなのだ。

  [ゴロッジ→コロシ→クルシ→苦しいと変化してきました。エンコはアンコ(座って)の高句麗系の言葉。「車がエンコした」のエンコの語源。サノネ=サノとは、天智天皇と異母妹鏡王女との間に生まれた双子姉妹。天地暗殺後、明石界隈に隠れて住んでいました。明石から都に戻った姉妹は、和泉離宮に住んでいます。]


✴️万葉集3ー393   満誓沙弥    月の歌一種

 不比等さん、あなたの居場所が知りたい。不比等が恋をしているのは一体誰?双子女の(それも末っ子の)ようだが。外戚世話なされしか。(不比等さん、あなたの心のあり場を知りたい。不比等さんが恋していたのは一体誰でしょう。双子女のそれも妹のようですが、、、。十六夜も過ぎ、月は今から痩せていきます。その間、外戚の世話をされていたのですね。)

[沙弥満誓の俗名は、笠朝臣麻呂。彼は、双子姉妹の姉元正Aの夫でした。不比等と関係を持っているのは妹だけと思いたい満誓の切実な気持ちがよく出ています。しかし、不比等は同母姉妹のどちらとも関係があり、それぞれに娘をもうけています。射狭夜歴(イジャヨビ)。イジャは、今、今から。ヨヲビは痩せる。今から痩せる?月は十五夜の満月を経て十六夜からは徐々に痩せていきます。全盛期を過ぎた女性の肉体的衰え様を、月に当てて読みこなしている絶妙な下りです。そして十六夜をなぜ「いざよい」と読むのかも判然とします。]

✴️万葉集 6ー1029   内舎人   大伴家持

  鉄磨ぎの場を掌握しに行こう。濃尾の野の輩を選別して我々穢達が鉄の場を支配しよう。持統の鉄の地を全て集め、領地と玉座を守りに行こう。

[従来訓は、「河口の野辺に仮寝して幾夜にもなると、妹の手枕が懐かしく思われることだ。」藤原広嗣の乱という大乱の最中、都を出たのが10月29日。天皇のお供をしての慌ただしい旅がこれからという時、野望に燃える男に「妻の手枕が恋しい」などという呑気な歌が詠めるでしょうか。しかも河口滞在中に、広嗣は捕えられ惨殺されています。聖武の時代を大きく開く転機がこの10日間に訪れたのです。このような事情を見れば、従来訓の重大な誤訳は一目瞭然。家持は単なる舎人ではなく、聖武の強力なブレーンであったことがわかります。]

その78

  ✴️万葉集8ー1538   山上憶良

  剥がされ奪われたものを、自ら取り戻しに行かれませ。砂鉄の出る山の尾根を、たたら場を取り戻されませ。
ナデシコこと県犬養三千代の鉄の間も、ヲミナエシこと持統の持っていた鉄場もすべて取り戻すのです。藤原一門にも打ち込みをかけましょう。そしてアサガオ(長皇子の娘で一門の鉄場の祭祀者)のところまで行ってすべてを取り戻されませ。

 [七という数字は数詞であるとともに「切」の原字でもありました。弁慶の「七つ道具」はすべて斬るための武器。「春の七草」も「切る」につながります。8ー1538山上憶良の歌で、不審に思われるのは最も秋らしい花がはずされていることです。それもそのはず、この歌の中の花々は、政敵から奪い返すべき鉄処を、草花の名に当てはめて表現されているからです。
   日本人は疑わない。これは美質か弱点か?1537は「秋の野に咲いている花を、指折り数えてみれば7種類の花がある」という歌だ、と学者の誰かがおっしゃると、もう絶対そうなのだろうと思い込んで疑いません。一度ぐらいは「⁉️」と疑ってみると真実への道が見えてくるというものです。


✴️万葉集9ー1664   雄略天皇=天武天皇

   夕方になっても、「休めよ」又は「射ようか」山の小椋山で、いつもわたしをねらっていた「鹿」が、今宵は声もない。それもそのはずだ。私の手にかかって死んだのであるから。ああ、今夜こそぐっすり休めとこの静けさが私に語りかける。

[夕されば、、、」。それはまさに雄略天皇ならではの歌であり、鹿を除いては全文韓国語で詠まれています。血の匂いを漂わせる暗殺者の歌です。雄略が「臥鹿之」と言ったのは、市辺押磐皇子=天智を隠喩したもの。市辺を吏読風に読むと「シカ」、鹿と同音です。雄略天皇は、王の座を虎視眈々と狙うライバル市辺皇子を、狩に誘い一気に射殺してしまいます。これと全く同じ内容である万葉集8ー1511歌は、雄略歌のパロディーで、蘇我入鹿を亡き者にした天智=中大兄のことを歌っているのでしょう。小倉山は「蘇我倉山田石川麻呂」のことで、中大兄が中央豪族の蘇我入鹿やその分家の石川麻呂など「鹿」一族を粛清したことをパロディー化したもので、9ー1664歌は天武の詠んだ天智暗殺の歌なのです。従来訓の「小倉山の鹿は今夜は珍しく鳴かないね。もう寝てしまったのだろうか。静かな夜である」で納得してきましたが、考えてみると平凡すぎて、後世にまで残したいと思うほどの歌ではありません。]


✴️万葉集9ー1667   太政天皇(持統)・大行天皇(文武)

  政権取りに乗り出したので、私は王位を得た。渡来の者がいるので、新羅王である私が彼らを頼り、渡来新羅人に後押しされて王になった。

 [697年、遂に文武は天皇に即位し、大宝律令も完成。安定を手に入れた文武は、大宝元年(701)10月、持統と共に紀伊の国を訪ねます。文武75歳、持統57歳でした。大王町一帯に伝えられている古い民謡「エレワカ」。「エレワカ」は「あァ、アゴ様!」の意になります。ワカはアゴが変音した言葉。アゴは「子」をさします。文武は当時の天武天皇の長男だったので「子」の意味でアゴと呼ばれていました。そのアゴ様ゆかりの海であるということで、英虞湾は古くからアゴの海、アゴの浦と称されてきました。現在の英虞湾、阿児町も同様です。
  万葉集にしても民謡にしても地名でも、作って残すということは何と恐ろしいことでしょう。1300年前の古代が生き生きと証言されています。

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