絵ピソード

その67    相撲は日本の国技と言いますが、今は外国人力士が上位に入ることが多く、グローバル化しています。というより相撲はもともとモンゴルなど西北アジア発祥で、それが日本では、例のごとく日本的に美しく完成し、残っているということでしょう。相撲は古代の高句麗でも国技でした。
     古代の韓国人が用いていた儀式用語や技術用語が、そのまま現在まで日本人の間で用いられている、この驚くべき事実に日本人はもちろん韓国人も気づいていません。
      ある年の春場所、大阪府立体育館で二人の中堅力士が組み合っていました。しかしがっぷり四つになったまま動きません。その時行司が大声で気合いを入れました。「タガタガ!タガラタガラ!」これは一体何のサイン?どういう意味の言葉?日本語とは到底思えないのだが、と苦心することはありません。これは韓国語です。タガ、タガラは「詰め寄れ、詰め寄れ」「近づけ、近づけ」の意。日本の相撲(角力)は高句麗の相撲「角抵(カクジョ)」の影響を強く受けていることが、このことからもわかります。
     4世紀のものと思われる高句麗古墳「角抵塚」の壁画には、組み合っている力士や行司が生き生きと描かれています。ちょん髷を結った髪型始め前垂れのような下がりまで、今の日本の力士にそっくり。紀元前1世紀に国をひらいた高句麗は西域から早々にこの角抵を取り入れ国技として花咲かせていました。これが日本に取り入れられたのはおそらく5世紀ごろと思われますが、本格的に取り入れられたのは7世紀頃でしょう。
    「ハッキヨイ」「ノコッタノコッタ」は、どんな意味でしょう。「ハッキヨイ」は、ハギョで「せよ」「始めよ」の意味です。「ノコッタノコッタ」は、「倒せ」の意の「ノヲムグダ」。

その68    北東アジア大陸を一手に収め、勇壮絢爛な文化を誇った高句麗国の、領土拡張的マグマを、高句麗の数詞から確認できます。「一」から「十」までの数詞から生じる語音を全部繋ぐと一つの文章になるのです。

一      ビ                     鮮卑国               西隣の鮮卑
二      ブタ                  から                   から先に
三      ミル                   押せ                  押し出せ
四      ヲル                   上の                  上の
五      ウチャ                冷たい                寒い
六      ムッ                   大陸(扶餘国)       大陸(扶餘国)と
七      ナヌン                分けた                昔別れた
八      ヱエ                   穢(東穢)             穢(東穢)も
九      ゴヲゴヲノヲ        それ入れて          加えて
十      ドヲ                    全部                  全部を高句麗が
                                                          支配することにしよう
   
   高句麗は大陸の根元を横断する鴨緑江の支流に発祥しました。河から河へ、谷から谷へと領土を広げていきました。西は鮮卑、北は扶餘国、東は東穢。この東穢が高句麗より一足先に日本に渡ってきた先住民族「八百万の神々」です。言葉に込めた念願はついに叶いました。そしてこの言葉が日本の数詞「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ、なな、やぁ、ここのつ、とぉ」になりました。

その69    2003年5月20日付の新聞がこぞって伝えました。「弥生時代の開始が定説より500年遡り、紀元前800年ごろというのが分かった」ということです。興味深いことに、韓国の『檀君神話』には、「紀元前723年、将軍を海上の熊襲に行かせ平定させた。紀元前667年軍を派遣、海上を討伐させた。12月に三島を全て平定した、、、。」という記述があります。
  『日本書紀』巻1神代上の冒頭に、初めて現れた神の名があります。ウマシアシカビヒコジです。「母なる最高の鉄で磨いだ刀を祀る男」という意味です。日本における最初の神は、鉄刀を携え、初めて日本にやってきた集団のリーダーもしくはその象徴であったこと、そしてその存在が新羅系であった事実までその名が明らかにしてくれます。
   稲作農耕に鉄製農機具は欠かせません。春日=ガセガル=農機具磨ぎ直し。奈良の春日大社は藤原氏の氏神を祀るために768年、創設されました。鉄製農具の製作と修理によって巨万の富を築いた製鉄豪族が藤原氏だったのです。

 農業カレンダー
1月   睦月    ムツドギ     埋め月          作物を埋蔵して保存する
2月   如月    キサラギ     生き月          新しい生命力
3月   弥生    イヤノヲビ   続け伸び月    発芽期=成育期
4月   卯月    ウドギ        最上月          緑輝き、花は咲く
                                                     川は輝き、蚕は太る
5月   皐月    サッドギ      挿し月          田植え
6月   水無月  マナドギ     水出月          「出水」の意味でミナ
7月   文月     ブルドギ     火の月          夏の真っ盛り
8月   葉月     バァドギ     見る月          見る、得る、
                                                     仲秋豊かな収穫
 9月  長月      ナガドギ    出かけ月       朝から晩まで仕事場に
                                                     出かける
10月 神無月   ガムナドギ  神あり月      全国の神様が佐太神社で
                                                    鉄取引会議を行う
11月  霜月     シィモドギ  鉄集め月      農機具を修理のため
                                                     回収する
12月  師走     シィバス     鉄壊し月      農機具の修理、製作を
                                                     おこなう
そうだったのか、と目から鱗が落ちました。特に梅雨なのに「水無月」はおかしいですが本当は「水出月」。「神無月」なのは地方のことで佐太神社に全国の神が集まるので出雲は「神在月」。なぜ12月は師が走るのか、ちんぷんかんぷんでしたが、本当は師=シィ=鉄だったのですね。

その70    さて、聖徳太子。聖徳太子は実在しないという事実にびっくりしたことが、日本古代史を学び直すきっかけになりました。聖徳太子といえば斑鳩の里。斑鳩と書いて「いかるが」と読みます。現在の生駒郡斑鳩町。聖徳太子の斑鳩の里があったことが地名の由来とされています。「イッ」は、続ける、継承又は聖なるの意。この「イッ」が「神聖な」の意の齋となりました。「石」の語源も、この「イッ」です。「カル」は刀のこと。「が」は処。「いかるが」は「継承太刀の地」又は「聖なる太刀磨ぎ」の意。先祖代々受け継がれてきた聖なる太刀が斑鳩宮にあったとすれば、聖徳太子は「王位」を継ぐべき正当な継承者であったことになります。しかし日本書紀による限り、太子は即位していません。
    聖徳太子は赤毛で、ベッドに寝ており、牛乳やチーズが好物だったという説があります。歴史学者の小林惠子さんは、聖徳太子は突厥の王子ダルトウであるという結論を出していますが、生活様式は確かに遊牧民のそれですね。法隆寺の夢殿の八角形も、遊牧民のテント、パオに形がそっくりです。聖徳太子の腹心秦氏はネストリウス派のキリスト教徒だったと言われていますが、馬小屋で生まれたキリストを彷彿とさせる厩戸王という聖徳太子の別名もさもありなんと思われます。
    ダルトウまで飛躍しなくても、もっと身近に聖徳太子のモデルがいます。高句麗宰相で大将軍、ヨン・ゲソムンすなわち天武です。ゲソムンは赤毛で有名です。

その71    ゲソムンは15歳で、金庾信の妹宝姫(ボヒ)を妊娠させてから、庾信の家から追放されました。ボヒは法敏=新羅30代文武大王、すなわち文武天皇を密かに出産しましたが、その間ゲソムンは中国唐帝国を放浪していたとする説もあり、唐代に大流行した景教=ネストリウス派キリスト教に触れた可能性があります。
   大阪市八尾市にある大聖勝軍寺は、物部守屋との戦いに勝利した記念に、聖徳太子によって発願建立されたと伝えられています。60年に一度しか開帳しないという植髪太子堂には、鉄矛を両手で握りしめて座っている木造の守屋像が祀られています。守屋像の後ろには、あたかも守屋を監視するような姿の聖徳太子像があります。この太子像は太子自作といわれ、太子自身の髪が植えられているといわれるところから、植髪太子像と呼ばれています。太子は赤毛だったといわれ、植髪太子像という発想自体、それが太子の外見の最大の特徴だったのではないかと言われています。

その72    大阪府柏原市の安福寺に、聖徳太子の棺があるということをご存じですか。もちろん棺の一部分ですが。
    2017年10月13日(金)、NHKの歴史秘話ヒストリアで「聖徳太子の棺、伝説のその先へ」という番組が放送されました。その棺は、木に漆と絹を何層にも塗り固めて作られたそうですが、斉明天皇や藤原鎌足など貴人の棺として複数の古墳からも発掘されているそうです。しかし、それらは漆と麻からできているそうで、安福寺の棺は絹を使っていることから、さらに身分の高い人物のものであるとして、1973年ごろから聖徳太子の棺ではないかとみなされてきました。
    しかしその後、この技法は、聖徳太子が生きていたとされる時代にはなかったと結論づけられたそうなので、それでは一体誰の棺なのか、ということになります。斉明や鎌足と同時代に生きた人物で、最高位ということになると、天武天皇しかいません。高句麗、新羅、中国、日本を股にかけて活躍した国際人であった天武、その傑出した人物像を後世に残すために作り出されたのが、聖徳太子伝説なのではないでしょうか。聖徳太子と名づけられたのは、平安時代であるということはすでに周知の事実です。

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