絵ピソード

その55    694年、藤原京が造営されました。東西方向5.3km、南北方向4.8km。平城京、平安京を凌ぐ古代最大の都でした。ところがたった16年で、710年平城京に遷都されました。いったいなぜ???実に不自然です。しかしそこには遷都せざるを得ない理由があったのです。
    聖武天皇の実父柿本人麻呂は、処刑されました。斬首の後水刑死という遺体も見つからない無残な死に方でした。人麻呂は文武に守られていましたが、文武が死ぬやいなや、不比等は人麻呂を処刑しました。それを許可した元明天皇も寝覚めが悪かったのでしょう。藤原京に夜な夜な人麻呂の亡霊が出るようになりました。大臣の石上麻呂は「新たに大々的な即位式をあげましょう。」と提案します。しばらくは即位式の準備で藤原京は賑わいました。しかし、その後は再び亡霊の声が女帝を悩ませることに、、、。
   16年で捨てられた藤原京。源氏物語では元明天皇は六条御息所として描かれています。生き霊となって葵の上(光源氏の正妻、実は石川刀自娘)をとり殺す女。元正は夕顔のモデルですが、夕顔は物の怪に取り憑かれて死にます。物の怪の正体は六条御息所であるという説があります。亡霊を恐れて早々と出来立ての素晴らしい都を捨てた元明天皇を、紫式部は生き霊、物の怪として描いたのです。さすが紫式部!

✴️万葉集1-76    和銅元年戌申天皇御製
      「相対して戦おう、双子よ!」と亡霊の声。鞆の音も聞こえる
        大臣斬ることできず    盾立てて防げというほとんど
        最後という時

その56    アスカは「最高の鉄処」を表す語に「明日香」という好字を当てたものです。多武峰と畝傍山、耳成山に囲まれた飛鳥川流域をいいます。この地に建てられた天武天皇の宮に「飛鳥浄御原宮」と名付けたのは朱鳥元年(686)7月。天武の真の亡年は天武11年(682)と推定されるので、持統とそのスタッフによって明日香から飛鳥への地名変更が強行されたものと思われます。首都「明日香(あすか)」の政治主体が変わったことを国民に示す必要性に迫られてのことだったのでしょう。新しい政治主体とは文武と持統。これより『日本書紀』の記述は飛鳥一点張りになります。
   飛(ナル)、鳥(セ)、2字合わせてナルセ=飛ぶ鳥。ナルは日のナル、生のナルと同音。セは明けるのセ、鉄のセと同音なので、ナルセは「飛ぶ鳥」であり、「夜明け」であると同時に「生鉄」をも意味します。飛鳥=明日=生鉄。飛鳥を「あすか」と読んでもおかしくない論理がここにあります。
   4年間の百済系高市政権を打倒し、新羅・高句麗政権が樹立されましたが、遷都はままなりません、せめて名前だけでも変えようと飛鳥(ナルセ)と改名されましたが、民衆は言い慣れた「あすか」と呼び続け、金輪際「あすか」とは読めない「飛鳥」が「あすか」と読まれることになったのです。

その57    石器時代、青銅器時代を経て、現在は鉄器時代です。オリエントに初めて鉄器をもたらしたのはヒッタイト王国( BC1680年ごろ〜BC1180年)。高度な製鉄技術で、メソポタミアを征服し、史上初の鉄器文化を築きました。極東の国日本では1世紀の出雲で製鉄が始まったとみられています。もちろん韓半島からの渡来人によってであり、高句麗の建国者朱蒙(チュモン)の年上の妻召西奴(ソソヲノ)の連れ子沸流(ピリュ)=スサノオ=素戔嗚その人です。
    今でも島根県の奥出雲では、年に一度たたら製鉄が行われています。三日三晩休みなく作業する一回のたたら製鉄で、2トンの玉鋼が作られ、そのために必要な砂鉄は24トン、木炭が28トン、薪に至ってはなんと100トンです。一つの山を丸ごと伐採しなければ得られない量で、はげ山を元通りにするのにおよそ30年かかるということです。木の調達が古代製鉄の最大の問題でした。スサノオは母ソソヲノにこんなところ、つまり韓半島に居たくないと叫んで来日して出雲で製鉄をおこなったわけです。また虎をトーテムとする穢系の人々は木を求めて韓半島を南下し、伽耶諸国を作りましたが(その一つが金首露建国の金官伽耶であり、金首露の宝剣が草薙の剣です)、さらに木を求めて大挙して日本列島に渡りました。民族大移動でガラ空きになった伽耶諸国は百済や新羅によって次々に滅ぼされました。伽耶諸国と日本列島にのみ見られる前方後円墳がそのすべてを物語っています。
   たたら製鉄は大陸のタタール人(韃靼人)によって伝えられたとも言われています。日本刀の鋼として優れた品質を誇る玉鋼は、現在最高の製鉄技術でも再現不可能と言われています。

その58    天智は自身も双子、娘も双子、息子も双子と双子の家系です。娘とは鏡王女との間に生まれた元明天皇、元正天皇で、息子は小碓(こうす)命=高市皇子と大碓命(高市の兄で、高市に殺された)です。そして自身の双子の妹は間人皇女。間人は孝徳天皇皇后で、孝徳天皇の死後、中皇命(なかのすめらみこと)として一時的(6年間)に天皇位についたともいわれています。絶世の美女で、その美しさが衣を通って輝いていたので衣通姫(そとおりひめ)とも呼ばれました。『古事記』には太子の木梨軽=天智が、禁じられていた同母妹の軽大娘=間人との結婚のために人々の支持を失って、道後温泉の地に移され、後を追ってきた衣通姫と共に自害するという記述があります。いくら古代でも同母の兄弟姉妹との近親結婚は固く禁止されていました。許されない不倫です。
    相手かまわず誰とでも性交することを、ダ(全部)バッケ(刺す)と呼びました。これが日本語「たわけ」の語源です。「たわけ者」というのは単なる馬鹿という軽い意味ではなかったのです。人として許されない存在で、天智は間人との邪恋を断ち切れずに、百済からも追放され、日本でも天皇位につけなかったのです。
   そしてついに天智は間人を殺します。665年2月、間人53歳の時です。

その59   天智ー天武ー持統ー文武ー元明ー元正ー聖武というのが従来の天皇即位順です。しかし、真実は斉明ー天武ー高市ー文武ー元明ー元正Aー元正Bー聖武。つまり天智は即位しておらず、持統はあくまでも天武皇后でした。高市は天皇位についており、元正は二人いて途中ですり替わっています。元正Aは元明の双子の姉であり、元正Bは元明の娘(父は藤原不比等)です。不比等が双子の同母姉のどちらとも関係を持ち、しかもそれぞれ娘まで儲けているという事実は天智の不倫をも凌ぐ悪徳の極みですが、この驚天動地の真実の数々を、万葉集と源氏物語が残してくれているという奇跡に只々感謝するほかはありません。この二つの文学は世界に例を見ない素晴らしい日本人の宝です。
   世界に例のないものはもう一つあって、日本の古代に双子の女帝がいたという事実です。
『日本書紀』には「元明が父天智を殺した天武の墓を暴いて親の仇を討ちたいと主張した時、姉の元正Aは、そもそも天智は即位していない。天武は文武の父で、文武は逃亡中の元明、元正の双子姉妹を助けてくれた恩人だと元明をなだめ、元明は天武の墓を暴くことを断念した、、、。」というエピソードが弘計、億計の双子兄弟の話として記述されています。弘計(顕宗天皇)、億計(仁賢天皇)は播磨で牛飼いをしているところを発見され、文武天皇は二人を迎えて天皇にしたと。『日本書紀』には弘計、億計兄弟の姉として飯豊青皇女が出てきます。元正Aは阿於(あを)皇女ですから元正Aと飯豊青は同一人物でしょう。このように女を男にしたり一人の人物を二人に分けたり、色々とカモフラージュして真実を散りばめているのが『日本書紀』なのです。ちなみに元明天皇は阿部皇女、元正B皇女は氷高皇女です。で、この氷高皇女は聖武天皇の母宮子の異母姉妹ですので、聖武にとって叔母さん。聖武より21歳年上です。なのになんと聖武の愛人だったのです。これにはびっくり。万葉集を編纂した大伴家持は聖武の側近でしたが、氷高皇女を憎み、高貴な女性殺しの歌を詠んでいます。高貴な女性=アシ、刀で切る=ビゲ、続けるとアシビゲヌンつまり「足引の」。意味のない言葉「枕詞」の筆頭です。しかし、意味がないどころか、主題そのものです。

その60    『日本書紀』応神紀歌謡41に「官船枯野を焼いて塩を作り、その残りで琴をつくった。琴を弾くと由良の瀬戸の門中の海石(いくり)に、火に焼かれて広がる気配は“鉄よ、鉄よ”と響いた。」とあります。伊豆の国が献上したというこの船は、長らく官船として使われてきましたが、朽ち果て使用不能になっていました。「どうすればその功績を後世に伝えることができるだろうか」と天皇が言われたので、役人達は船を解体して薪にし、塩を焼きました。さらに余燼(もえくい)が残り、天皇がそれで琴を作らせたところ、琴の音はさやさやと遠くまで響きました、という歌です。「枯野」という官船の逸話は、応神紀と仁徳紀に載っています。話のニュアンスにちょっと違いがありますが、「枯野」と名づけられた高速船が老朽化し、それで琴を作ったら遠く響く音がしたという点が共通しています。
    『続日本紀』によると702年(大宝2年)に岐蘇山道が、713年に吉蘇路が開通したとあります。それはまさに「秘中の秘」であったとみえます。まず木片を焼き半焼きの炭にします。この半焼きの炭を膨大に作ります。日本は「木の国」、木はいくらでもあります。古代の製鉄には半焼きの炭が用いられました。「半焼きの炭を新羅に送る。炭は軽く、生の木材を運ぶよりずっと簡単だ。美濃国の大密林、岐蘇=「木曽」の山路を開けば、炭作りは勿論、船作り、宮殿作り、寺院建立のための木材運搬に至るまで可能になる。」
    枯野の焼けのこりで作った琴を弾いたら、遠く淡路島の南東端、由良の瀬戸にまで届いた、その音は文武の耳には「さやさや」と聞こえました。「そうだ!鉄だ!鉄だよ!」。木を焼いて半焼きの炭にして新羅に送れば、手っ取り早く製鉄ができる!文武の脳裏にこの一言が稲妻にように閃きました。

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