絵ピソード

その43     天武天皇は強面の大将軍、戦いに明け暮れてきました。それが晩年すっかり仏教に入れ込み、肉食禁止令を出しました。お陰でそれ以来日本人は、主に魚や大豆でタンパク質を摂る生活を余儀なくされました。山暮らしであればジビエ料理も食べられたでしょうが、表向きは禁止です。そのため顎が発達せず、瓜実顔で、それ自体が詩であると言われる穏やかな日本語を話すようになったというわけです。韓国語の発音は結構強いですし、喉の奥から出すような音もあります。日本語の昔の発音を残しているのが旧仮名遣いで、例えば明治製菓は「めいでいせいくわぁ」。今は「めいじせいか」ですから余程おとなしくなっています。
    何しろ、「モッミチ(足りない、不足しているという意味)」という韓国語が「もみじ=紅葉」と変化するわけです。秋になって葉っぱに行き渡る水分が不足して赤や黄色に色づくのが紅葉です。不足する、という実用的な言葉が美しい紅葉を表す言葉に変化したのです。日本語は生まれながらにして詩であると言われる所以ですね。
   「♫兎追いし、かの山。小鮒釣りしかの川」。誰でも知っている「故郷」の冒頭の歌詞。兎を追ったのは、その肉を食べるためだったんだと気づいたのは迂闊にもつい最近でした。庶民は、肉タンパクを取るために色々工夫したんですね。

その44     天智を殺し、盟友鎌足も落馬事故後亡くなり、天武が1人生き残って権勢を振るったかというと、それも一時のことで、天武も最後は暗殺されてしまいます。天武殺しの首謀者は高市皇子。天武の息子と言われていますが、実は天智の息子です。双子の弟で、兄は大碓命、高市は小碓命。天智自身も双子ですが、双子の娘と双子の息子をもうけました。双子の娘は、異母妹鏡王女との間の子で、姉は元正天皇で、妹は元明天皇になります。双子の息子は、北九州の海洋豪族宗像徳善の娘尼子娘との間の子供です。高市は勇猛果敢なヤマトタケルその人です。女装して熊襲の首領を殺したぐらいですから、小柄で整った顔立ちをしていたようです。
   高市は、父天智が弟の大友皇子を偏愛したので、壬申の乱においては天武と親子の契りを結び、大友皇子と対立、勝利しました。ところが当然自分が即位するつもりだった天皇位に天武がついてしまったのです。そこから天武と対立し、天武の実子大津皇子や草壁皇子らと共謀し天武を暗殺しました。天武は謀反の知らせを受けて飛鳥を脱出、琵琶湖を通って、北陸敦賀の気比海岸から急遽渤海に逃れようとしたところを、高市らに待ち伏せされ、争乱の結果殺されたとみなされます。682年9月10日の出来事です。しかし天武の死は極秘にされました。

   ✴️万葉集2ー160   持統天皇作

     お経ばかり唱えていたので、戦を家の中に引き入れたのです。
     仏様をまとめて行かせましょう。神々が荒々しいようです 。
                                              (神は表向きで裏は高市皇子)

その45     越前一宮の気比神宮は文武天皇の勅命で建立されました。ご祭神は、仲哀天皇=天武天皇、神功皇后=持統皇后、日本武命(ヤマトタケルノミコト)=高市皇子、応神天皇=文武天皇、玉妃命、武内宿禰。
    今はもう焼失してしまいましたが、御本殿の梁部分に、割れた桃の実の中に立つ陣羽織と軍扇姿の桃太郎の彫刻がありました。その顔は老人で、右手に持った軍扇で心臓をカバーし、左手に刀を持って、今まさに飛び降りようとする舞踏のポーズだったそうです。桃太郎=百太郎=百済の若武者だった高市皇子は左利きでした。桃太郎の鬼退治。鬼は鬼将軍=天武天皇。気比神宮の魔除けのお守りは、髪をみずらに結い、割れた桃の実の中に立つ、桃太郎なのです。
    高句麗将軍だったヨン・ゲソムン=天武天皇に一矢報いたい唐帝国は、高市皇子を唆して天武を暗殺させました。最後は内部分裂させて目的を遂げるのが、唐の常套手段です。桃太郎の昔話は日本人なら誰でも知っていますね。川上から大きな桃が流れてくる様子を、「どんぶらこっこ、すっこっこ」、「どんぶらこ」、「とんぶらこ」などと表現しますが、これは「済州島の子」という意味の言葉だそうです。高市皇子は「唐小僧」ともいわれました。唐の手先の唐小僧、済州島や北九州を股にかけた海洋豪族宗像一族である済州島の子こそ高市皇子いや高市天皇だったのです。
   しかしヤマトタケル=高市天皇も、とどのつまりは殺されます。誰に?桃太郎に黍団子を持たせてくれたお婆さん、すなわち、吉備のお姫様であった持統によってです。そして729年高市天皇の息子長屋王一族は滅ぼされました。(長屋王の変)

その46    何故持統が、夫である天武天皇を高市に殺させたのか。桃太郎に鬼退治をさせたのか。その理由は7世紀に起こった大事件が原因です。7世紀の日本で起こった大事件の一つは壬申の乱ですが、もう一つの大事件がありました。それは、新羅の第30代文武大王の日本亡命です。
   文武大王は古代朝鮮半島の高句麗・百済・新羅の三韓統一を果たした英雄です。そして文武大王こそが日本の古代律令国家を打ち立てた文武天皇なのです。
   文武大王は表向き新羅第29代武烈王=金春秋と大将軍金庾信の妹文姫との間に生まれた長男とされていますが、実はヨン・ゲソムン=天武天皇と金庾信のもう1人の妹宝姫との間の子供です。ヨン・ゲソムンはこの時 15歳。
    高句麗の宰相家に生まれたヨン・ゲソムンは、捨て子にしなけれが死ぬ運命と予言され、乳幼児期は、早衣(チョイ)という武術集団の中で育てられ、物心ついてからは、金庾信の父によって、表向きは下男として育てられたことになっています。朝鮮の英雄で、幼少年時代がはっきりしない人物は、ほとんど島=日本との関わりが深い人物です。ヨン・ゲソムンもおそらく乳幼児期は、日本で育てられたのでしょう。
   さて、新羅の大将軍金庾信とは何者か?庾信は朝鮮半島南部に建国された金官伽耶国の直系子孫です。新羅に滅ぼされてからは新羅の貴族に編入されました。金官伽耶の建国者は金首露(キム・スロ)。キム・スロの宝剣が、すなわち日本の天皇の即位に欠かせない「草薙の剣」です。

その47
   朝鮮の三韓統一は、綿密なシナリオの下に成功した偉業でしょう。ヨン・ゲソムン=天武天皇、ヨン・ゲソムンが15歳の時に儲けた息子、新羅30代文武大王=文武天皇、金官伽耶国の直系子孫で新羅の大将軍金庾信の3人が綿密に練り上げた脚本です。
   676年7月、唐はたび重なる失敗にもかかわらず、三代高宗の時代、新羅に出兵、失地回復を狙います。しかし、前後22回に及ぶ大接戦の末、新羅は大勝し、20万の唐の大軍を、徹底的に撃退しました。この時、渋る天武天皇を説得し、持統は新羅支援を強行しました。日本書紀の神功皇后の新羅征伐とはこのことを言うのでしょう。持統は前線に赴き、男装して兵を叱咤激励しました。対馬に残るおびただしい神功皇后伝説がこれを物語ります。また神功皇后は持統を投影した人物ですが、神功は最後まで皇后で天皇になっていません。持統はあくまでも天武皇后で、天皇ではなかったと思われます。では実際の持統天皇とはいったい誰だったのでしょうか。それは高市皇子だという説が有力です。この新羅征伐(真実は新羅支援)の時、神功皇后に影のようにいつも寄り添っていた人物竹内宿禰がいます。竹内宿禰は、高市皇子が投影された人物と言われています。実際持統は、これ以降も神経質なほど高市皇子を常に意識しています。
   文武大王は、日本亡命に先立ち、忠元という仮の名で来日しています。実父天武天皇との初対面や亡命時の打ち合わせ等が目的の来日だったでしょうが、ここで文武にとってラッキーな出来事が起こります。筑紫まで文武大王を迎えに行った天武の妻持統がたちまち文武と恋に落ちます。天武の34歳年下の妻持統。文武よりも19歳も若い持統が、眉目秀麗で弓矢の名手、当代きっての英雄文武と出逢って、何もないことこそがおかしい状況でした。そして10ヶ月後、持統が出産し、生まれた子供に「舎人皇子=隣の王子」という名前が付けられました。このスキャンダルは当時、公然の秘密であったとおもわれます。
 

その48    唐帝国は統一新羅に敗れましたが、こと韓半島に関する限り、おとなしく指をくわえて見ている唐ではありません。今度は内部破壊を画策します。それが、日本では高市皇子による天武暗殺、新羅では文武大王の長男神文王の舅である金欽突の親唐クーデターとなって現れます。文武大王は、自身を死んだことにして、息子神文王を即位させ、速やかにクーデターを収束しました。そしていよいよ文武の日本亡命です。
    筑紫に上陸した文武の亡命を阻止しようと、天武の息子たち(大津皇子・草壁皇子・高市皇子)は、瀬戸内海で文武一行を阻もうとしました。そこで文武一行は知多半島に上陸しようと、鳴門海峡を通りましたが、台風のため、志摩半島の大王崎付近で遭難し、付近の新羅系住民に救出されました。
   その時のことは「わらじ曳き祭り」として、今日まで再現され続けています。文武は天武の長男だったので、「御子様=アゴ様」と呼ばれていました。文武が救出された地方には英虞湾、阿児町、大王町、大王崎と、アゴ様文武にちなんだ地名が目白押しです。文武は15年後にやっと天皇即位を果たしますが、天皇になってから持統とともにこの地に行幸し、住民にたっぷり感謝の贈り物をしています。
    日本はなんでも残す国です。祭祀の言葉の意味がわからなくなっても、その祭りは絶やしません。そこから古代の真実が掘り出されます。「わらじ曳き祭り」は、三重県志摩市大王町波切の波切神社で行われる祭りです。本祭の前々日に作られた縦2m横1mの大わらじは、神社拝殿に安置され、その後奉納されます。地域の若者にかつがれた大わらじは須場の浜に安置され、神職のお祓いを受けた後、担がれて海に入り、沖で漁船に渡されます。さらに沖に曳かれた大わらじは大王崎付近で放たれ、祭りは終わります。

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