李氏朝鮮の宮廷画家金弘道は、国王正祖(ジョンジョ)の肖像画を描いています。ジョンジョ又の名はイ・サン(これまた韓国ドラマの主人公として日本人にもお馴染みです)は、とても英明で進歩的な君主として知られています。彼は漢城(ソウル)から水原(スウォン)に遷都しようとしてスウォンに華城を建て、近代兵器を備えようとしました。この華城は完成しませんでしたが、その城址は現在世界遺産になっています。
写真のない時代、正祖は日本の兵器事情を探らせ、記録させるため腹心の画家金弘道を日本に送りこみます。金弘道は対馬から四国に渡り、讃岐の金比羅さんの人混みに紛れて、東海道を下り江戸に向かいます。朝鮮からのお供は若い医官一人でこれが弥次喜多道中の喜多(北)さんです。弥次さんのモデルは、十返舎一九。一九は日本における金弘道の世話役として行動を共にし、その詳細を『初登山手習方帖』に書き残しました。それを解き明かしたのが李寧熙先生の『もう一人の写楽』です。興味のある方はぜひ読んでみてください😍
写楽の役者絵は個性的な大首絵で、背景は光る雲母刷り。現在でも草間彌生のシルクスクリーンにはラメ入りのキラキラするものがありますし、片岡球子の富士のリトグラフにはプラチナ箔が用いられているものがあります。写楽はそのさきがけともいえます。そして役者の内面までも赤裸々に描き出す遠慮のなさや、全くの端役の大部屋役者の肖像も手掛けている不思議さに写楽の歌舞伎音痴ぶりを訝しむ批評家が多いですが、なるほど朝鮮から来たギム・ホンドは歌舞伎を見たのは初めてですからさもありなんです。しかも最も大きな謎はたった10ヶ月の活動期間の短さですが、日本に滞在した期間が短いギム・ホンドですからそれも当たり前です。写楽第三期や第四期の作品が初期に比べて画風が異なり、質が落ちているのもギム・ホンドが帰国した後に一九たちホンドに薫陶を受けたものたちの合作が後期の写楽の絵だっただろうことから当然です。その正体さえわかれば多くの疑問は氷解します。写楽の正体は阿波藩のお抱え能役者の斎藤十郎兵衛であろうという説がありますが、それがギム・ホンドの日本における隠れ蓑だったのでしょう。しかし能役者があの写楽の浮世絵を片手間に描けるはずがありません。斎藤藤十郎=写楽=金弘道なのです。
正祖は、ギム・ホンドが帰国後程なくして亡くなります。暗殺されたとも言われています。それに伴い、ギム・ホンドも宮中を追われ日雇い絵師として零落します。遅く生まれた息子の教育費にも事欠く生活を耳にした一九はギム・ホンドを再び日本に呼び寄せたのではないか、そしてホンドは日本で亡くなったのではないかというのが李寧熙先生の鋭い推理です🧐