31 文武と三千代、そして道鏡

2020年12月22日 17:53

万葉集8ー1653   県犬養娘子依梅発思歌

1653、縣犬養娘子依梅發思歌一首
如今心乎常尓念有者先咲花乃地尓将落八方

従来訓
1653、今のごと心を常に思へらばまづ咲く花の地に落ちめやも

真の歌意
子を引き取って育てることを、しきりに嫌がっている様子です。一番先に生まれた御子です。花郎の武士の「チ」とやらは、いったいどなたですか。どうして子を売ることができるでしょう。

 真実がまたも『万葉集』を通して明らかになる。作者は万葉集にこの歌だけ残したという女性。徹底した日韓混合読み。前半と後半にはっきり二分されている。処女が男の子を産んだ。「我が子を引き取って育てて欲しい」という女性の主張が前半。「その子を引き取って孫として育てたい」という男性への詰問が後半。
 「県犬養」といえば真っ先に思い浮かぶのが県犬養東人の娘三千代。美努王と結婚し、橘諸兄、左為王、牟漏女王を産み、その後藤原不比等の後妻となり、光明子を産んだとされている女性である。しかし三千代は光明子の実母ではない。三千代は不比等が愛してやまない許嫁だったが、文武との間に未婚のまま高安王を産んだ。
 三千代の父東人は「車持公」とも呼ばれた富豪で大スポンサー。高安王は文武と五百重娘との間に生まれた新田部皇子と、ほぼ同時期に生まれている。五百重娘と不比等の母鏡王女は激怒し、文武との関係は険悪となる。その皺寄せは高安にも及び、三千代は美努王に嫁がされ、高安は長皇子(金庾信の二男元述、文武の従兄弟)の子河内王に養子に出され、文武も明石に居を移す。
 しかし、鏡女王の死後、文武は見事に復活し、不比等も三千代を取り戻す。そして二人の間には光明子が生まれたことになっているが、光明子は文武と明石時代の愛人すなわち金庾信の長男三光の娘との間にもうけた愛娘である。「光」は祖父の名から取ったもの、「明石」は誕生の地を明かすものだろう。
 高安は文武が亡命後日本でもうけた子の第一号だった。そして三千代と文武の子高安王こそ道鏡の父。道鏡の母は文武と持統の間に生まれた愛娘多紀。持統が帝王教育を施して育てた多紀は、17歳の時異母兄の高安と恋に落ち道鏡を身ごもった。その失意が持統の命を奪った。道鏡は当時最高の毛並みを持つサラブレッドだったのだ。
 文武は56歳の夏、日本に亡命してきた。当時の天皇は文武の実父天武天皇72歳だった。天武の長男文武は「アゴ(息子)様」と呼ばれ、特別待遇を受けた。亡命直後のアゴ様の女性遍歴は、文武がモデルになった『源氏物語』の光源氏そのもの。上流社会の視線を一身に集めたし、批判も集中した。

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