30 息子の真人が殺すでしょう

2020年12月22日 10:40

万葉集8−1608     弓削皇子

1608、弓削皇子御歌一首
秋芽子之上尓置有白露乃消可毛思奈萬思戀管不有者

従来訓
1608、秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつあらずは

真の歌意
奪われてきました、今まで。剥がされてきました、すべてを。それをお上にさせて良いのですか。あの新羅の崩れ者に。鉄でも作りいきていこうなどとおっしゃらないでください。息子の真人が殺すでしょう。あの浮遊者を。

万葉集8−1609   丹治真人

1609、丹比真人歌一首 [名闕]
宇陀乃野之 秋芽子師弩藝 鳴鹿毛 妻尓戀樂苦 我者不益

従来訓
1609、宇陀の野の秋萩しのぎ鳴く鹿も妻に恋ふらく我れにはまさじ

真の歌意
宇陀の野に行け。(文武の)即位放棄はあり得ない。奪われたもの剥がされたものすべてを鉄に溶かせ。鉄づくりの開祖ではないか。妻に頼んでまで子に「殺せ」と言われるのか。私は父と対決など、決して致さぬ。

「天武以後、文武以前」の年間は、日本史最大の正史ブランクである。持統は本当に天皇だったのか。太政大臣とされていた高市こそ天皇だったのではないか。そして高市はなぜ、どういう状況で死んだのか。高市の死後、「皇室会議」が開かれ、皇太子に誰を立てるかを相談した時、額田王の孫、葛野王が長子(文武)相続を主張、弓削皇子の反対を押さえつけた。後継は天武の長子文武に決まった。時に文武71歳。しかし弓削皇子にも言い分はあった。天武より先に天皇となるべき人がいたのである。早くから一族もろとも日本にやってきて勢力を張っていた製鉄王多臣品治である。品治は持統の兄、天武の叔父にあたる。孫石川広成に「親を殺せと子を唆し」、挙げ句の果て「女(目)を失って、家は傾き揺れ動いた」と詠われた製鉄王品治。天皇になる運がなかったといえよう。

 新田部皇子=丹治真人は、弓削に返す歌の中で、品治に話しかけている。しかし言葉遣いに一切敬語は使われていない。目上の姻戚であるものの、皇子の立場から品治は臣下だったからか。毅然とした態度で、皇子らしい威厳と教養が溢れている。新田部皇子は鎌足の娘五百重娘の子、祖母は鏡王女であり、鏡王女の躾の程が偲ばれる。「奪われた」の「剥がされた」のと駄々をこねる甘い状況では更になく、容赦なく溶かされるかもしれない熾烈な政争のたたらが待ち構えていることを、新田部は強力に暗示しようとしたのかもしれない。この秋の相聞が詠まれたのは、持統10年(696)7月10日から8月25日の間。696年7月は高市の死、8月25日は品治が「位」と「物」を授けられた日。品治の死は700年。文武と息子役行者の確執を憂えた品治の妻白専女によって品治は捨篠神社の蓮池に突き落とされて死んだ。

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