1465、藤原夫人作明日香清御原宮御宇天皇之夫人也 字曰大原大刀自 即新田部皇子之母也]
霍公鳥痛莫鳴汝音乎五月玉尓相貫左右二
従来訓
1465、霍公鳥いたくな鳴きそ汝が声を五月の玉にあへ貫くまでに
真の歌意
鉄を培いましょう。立て続けに阻まれたけれど、しっかり防備しましょう。鉄の月城の王ではありませんか。鉄を作って戦いましょう。
藤原夫人は天武天皇の夫人で新田部皇子の母。鎌足の娘で、不比等の妹。名は五百重娘。万葉集には「ほととぎす」の歌が156首ある。そのうち「霍公鳥」としてほととぎすを詠っている作品は131首。一方「保登等芸須」は25首。だが題詞では例外なく「霍公鳥」である。
7世紀後半の日本に二つの大事件があった。672年の壬申の乱。もう一つは681年の新羅文武大王の日本亡命である。文武に対して、次期天皇をめざす皇子たちやその側近は激しく反発、攻撃した。しかし文武には強力な助っ人がいた。天武皇后持統である。持統は明敏でパワーがあった。広範な製鉄場を所有していたのである。
統一新羅と連合して唐に屈しない強国日本を作り上げるには、文武の力が必須と判断したのだろう。当時56歳の文武は老王天武(72歳)の女盛りの妻持統(37歳)と男女関係でもむすばれていた。こうした状況の中で「ほととぎす」は歌われ続ける。ほととぎすは、ホオジロやウグイスなど他人さまの巣に卵を産みつけ他人さまに雛を孵化させる。しかもほととぎすの雛は孵化する時、一足先に殻を破って出てきて、他人さまの産んだ卵を巣から押し出し地上に落とす。そして仮親の保育を独り占めするのである。
文武大王の父は新羅第29代武烈王(善徳女王の甥)であるが、実は15歳の天武と、新羅の名将金庾信(金官伽耶国建国者金首露の直系子孫)の妹宝姫との間に生まれた子だ。金春秋=武烈王の実子金仁間は次男としてそだてられ、唐の都長安で虚しく亡くなった。文武王がホトトギスのあだ名で呼ばれるのも、むべなるかなである。五百重娘は鉄鋼豪族藤原鎌足の娘。鉄が権力の源であることを誰よりも知っていて、霍公鳥=ガッコウセ=鉄を培おうと呼びかけている。