1029、十二年庚辰冬十月依太宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍 幸于伊國
之時河口行宮内舎人大伴宿祢家持作歌一首
河口之 野邊尓廬而 夜乃歴者 妹之手本師 所念鴨
従来訓
1029、河口の野辺に廬りて夜の経れば妹が手本し思ほゆるかも
真の歌意
鉄磨ぎの場を掌握しに行こう。濃尾の野の輩を選別し、我々穢たちが、鉄の場を支配しよう。持統天皇の鉄の地をすべて集め、領地と玉座を守りに行こう。
従来訓は「河口の野辺に仮寝して幾夜にもなると、妹の手枕が懐かしく思われることだ。」とされてきた。藤原広嗣の乱の最中、都を出たのが10月29日。天皇のお供をしての慌ただしい旅がこれから、という時に野望に燃える男に「妻の手枕が恋しい」などという呑気な歌が詠めるだろうか。しかも河口滞在中に、広嗣は捕らえられ、斬殺されている。
聖武の時代を大きく開く転機がこの10日間に訪れたのである。このような事情をみれば、従来訓の重大な誤訳は一目瞭然。家持は単なる舎人ではなく、聖武の強力なブレーンであったことがわかる。