21 皇太子の座を追われた石川広成

2020年12月15日 18:13

万葉集4ー696   石川朝臣広成

696、石川朝臣廣成歌一首 後賜姓高圓朝臣氏也
家人尓戀過目八方川津鳴泉之里尓年之歴去者

従来訓
696、家人に恋過ぎめやもかはづ鳴く泉の里に年の経ぬれば

真の歌意
家は傾き、揺れ動き、親を殺せと子を唆し、ついにあなたの女(目)まで失くした。ああ、鉄の開祖、鍛冶王よ。今、私は泉のほとりの鉄処に行く。続けて王だった人の里なのだから。上質でより多くの鉄を磨きながら生きていこう。

 『万葉集』を真の訓み方で読むと、まず鉄が現れ、鉄がわかると真の歴史が見えて来る。作者の石川広成は弟広世と共に文武天皇の皇子である。母親は文武の妃、多臣品治の娘石川朝臣刀自娘。7世紀末の製鉄王は他ならぬ品治である。世が世なら天皇位についても不思議ではない多臣品治だが天武、高市、文武が次々と天皇位に上り自分にはなかなか機会が巡ってこない。品治を支持する高位層の者には広成に父である文武の暗殺を教唆する者もあった。
 時の天皇文武は、品治とその息子役行者を天皇位を脅かす者として警戒していた。そのような状況の中、息子役行者の身を案じた品治の妻白専女(はくとうめ)は、700年ついに夫品治を殺してしまう。白専女(素戔嗚の子孫と言われている)も後を追うように体調を崩して亡くなり、まさに製鉄王の家は傾き揺れ動いてしまったのだ。
 もう一人の天皇だった品治の死によって、文武政権はようやく盤石になった。しかし702年持統が死去し、さらに707年文武が崩御すると、政治の実権は藤原不比等に移った。宮子と人麻呂の不倫の子である孫の首皇子を即位させるためには皇太子広成の存在が邪魔だった。『続日本紀』の和銅6年(713)11月条に、文武天皇の妃二人の嬪号が突然剥奪されたとある。宮位を下げられただけで、財政的には以前と大差ない処分だったが、皇太子の身分を失った広成には決定的な打撃であった。不比等は、後妻の県犬養橘三千代を通して元明天皇を動かし広成を失脚させたのだ。
 奈良県大和高田市奥田の捨篠神社に伝わるひとつ目蛙の伝説がある。「白専女が神社の蓮池に詣でた時、金色の蛙が蓮の上に座っていた。何気なく傍の萱を一本抜き取って蛙に向かって投げつけると萱は蛙の目に突き刺さり、蛙は片目を失い池に沈んだ」。蛙の正体は、まさに目(命)も女(妻)も失った鉄の開祖品治である。
 鉄の親分として家業を継ぐと共に、修験道の開祖となった品治の息子役行者。現在に至るまで、毎年7月7日には、山伏が捨篠神社の蓮108本を切り取り、蔵王堂から大峰山までの街道の祀堂に蓮を献じて、品治の供養をしている。

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