266、柿本朝臣人麻呂歌一首
淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努尓古所念
従来訓
266、近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ
真の歌意
淡海(不比等)が突き出てきた。怒り狂っているので用心しよう。危ない崖っぷちに住んでいるのだ。昔ながらの場を守ろう。
大宝元年(701)、多武峰の山腹に建立された談山神社。御祭神は藤原鎌足。この談山もダムメ、淡海もダムメ。「溜め」の意。大和と近江を中心に勢力を糾合し続けていた鎌足・不比等親子にはぴったりの別称ではないか。不比等が、死後40年経って淡海公に封じられる前から「淡海」の名前で呼ばれていたであろうことがわかる。
人麻呂はこの歌の中に「宮子」の名を伏せている。海海浪汝古=「み・み・み・や・こ」である。宮子を呼ぶ絶叫!宮子は不比等の三女。文武天皇の夫人だったが、人麻呂との間に首皇子つまり聖武天皇を産む。聖武天皇の実父は柿本人麻呂だった。
『日本書紀』巻29天武10年12月10日、新羅からの客金忠平を筑紫で饗応させたとある。その19日後の12月29日、天武は田中臣鍛師や柿本臣猨ら10名に小錦下の位を授けたとある。柿本臣猨(佐留)は「12年11月朝臣姓となり和銅元年(708)従四位下にて没」とある。「佐留」は「申し上げる人」つまりスポークスマンである。柿本人麻呂は通訳から広報官を経て歌人として大成した人物であった。歌聖として崇められながら「生没年不詳」と無惨に処理されてきた。
人麻呂が天武の時代に日本にやってきたことを明かす文献が『人丸秘密抄』である。「・・・人丸軽からず(位階が低くないことを示す)。文武天皇の后勝八尾大臣の娘を犯し、上総国山辺郡に流罪になった・・・。」「勝八尾=加持祈祷病み」、すなわち不比等である。不比等の三女宮子と人麻呂の間に生まれた首皇子=聖武天皇。人麻呂は、聖武天皇の実父として正史から消さざるを得ない人物だったのだ。