12 長屋王は親王だった

2020年12月14日 08:39

万葉集1ー75   長屋王

大行天皇幸于吉野宮時歌、長屋王作
75、宇治間山朝風寒之旅尓師手衣應借妹毛有勿久尓

従来訓
75、宇治間山(うぢまやま)朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに

真の歌意
お上が亡くなられたのだから、権力や財産を奪われても耐え忍ぶしかない。すべて放棄しなさい。そうすれば配流や裁判など弁えてなさらないだろうから。

 1988年9月、奈良市の長屋王邸宅跡から発掘された木簡三万枚のうちの一枚に「長屋親王宮」と記されていた。この木簡文字は、学会に大きな衝撃を与えた。親王とは天皇の皇子か、天皇の兄弟だけを指す称号であったからだ。長屋王は高市皇子の第一皇子である。しかし、高市皇子が天皇に即位したという記録はない。従って『日本書紀』を見る限りでは長屋王は親王ではあり得ないのだが。
 壬申の乱で天武側につき奮戦した高市皇子だが、結局日本で初めての天皇位についたのは天武天皇だった。天智の息子である自分を差し置いて天皇位についた天武を暗殺した高市は晴れて天皇位についた。文武は吉野へと追いやられ、持統は30回以上にも渡る吉野通いを続けながら、機を見て兄多臣品治に高市を殺させる。696年10月のことだった。高市43歳。そして遂に文武は天皇位に登る。71歳だった。この時持統は52歳。持統は天皇以上の皇后だったが、自身は天皇になっていない。持統皇后は、忍耐強い稀代の政治家だった。
 729年2月、密告者により、長屋王は反逆者として、邸を軍に囲まれ自刃に追い込まれた。光明子立后に反対したため、謀反を起こしたとして不比等の子藤原四兄弟によって成敗されたのだった。

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