10 源氏物語はモデル小説だった①

2020年11月18日 18:50

光源氏のモデルは、新羅第30代文武大王=文武天皇

 『源氏物語』の登場人物は歴史上実在した人物をモデルにしていた、という驚愕の事実。しかし驚くとともに納得も。光源氏という現実離れしたモテモテのキャラクターをゼロから創造した、ということがどうしても腑に落ちなかったからです。光源氏のみならず、多彩な登場人物が現れる長編小説を生み出した紫式部の才能恐るべしと思う反面、凄すぎてついていけないという思いで『源氏物語』を敬遠していました。しかし7世紀の後半から8世紀前半の日本の驚きの史実をもとにしたモデル小説であったというならば話は別です。神話としての『古事記』、事実と虚構が入り混じったファクションである『日本書紀』だけでは掴めない、古代日本史の真実を教えてくれるガイドとしての『万葉集』と『源氏物語』ということで、俄然その存在意義を増します。

 『万葉集』の場合、全文韓国語詠み、一部が韓国語あるいは日本語という混合詠みなどいろいろな場合があります。いずれにせよ、『万葉集』は、韓国語で書かれていたためにその内容が誤読され、原文のまま奇跡的に今日まで残った、世界に類例のない日本の誇る歌集であり史料です。そのために驚愕の古代日本史が明らかになるわけですが、反面、韓国語と日本語に精通したバイリンガルでなければ真の歌意を理解できないというネックがあります。しかし『源氏物語』は、さまざまな文学者が現代語訳を出している有名な古典ですし、もちろん日本語で書かれています。ですから源氏物語の登場人物のモデルは誰かを理解することで、誰にでも、真の日本古代史が理解できるのです。

 まず主人公の光源氏とは?朝鮮半島の三韓統一を成し遂げた後、681年日本に亡命した新羅の英雄第30代文武大王(ムンムデワン)その人です。彼は何故日本に亡命したのでしょうか。それは、初めて天皇を名乗り、初めて日本という国号を使用し、初めて富本銭を流通させ、日本の古代律令国家の基礎を築いた天武天皇が、文武大王の実父だったからです。天武天皇は高句麗の宰相を父とし、日本の名門出身の女性を母としています。幼少期を日本で過ごし、青年期を新羅、中国で過ごした、当時超一流の国際人だった大海人皇子=天武天皇。成人後は、高句麗の大宰相兼大将軍に上りつめたあと、高句麗王を弑逆し高句麗の実権を握りました。高句麗の領土を執拗に狙う唐の二代皇帝太宗李世民と死闘を繰り返し、ついに韓半島から唐を撃退した英雄で、朝鮮では知らぬ者がいない歴史上の人物です。

 天武天皇は、『源氏物語』における光源氏の父桐壺帝のモデルです。高句麗の句麗は「キィリ」と発音しますので桐壺と表記したものでしょう。中宮藤壺は天武皇后である持統がモデルです。持統は製鉄名門出身ですので製鉄を象徴する藤が名前についています。光源氏は父の妻藤壺と密通し、藤壺は源氏の子を出産します。これも史実に基づいています。日本亡命前の文武大王は、新羅王子忠元の名で676年初来日し、唐との戦いに際しての日本の支援を依頼しています。渋る天武を説得して持統は新羅救援に動きます。これが『日本書紀』にいう神功皇后の新羅征伐の真相です。征伐ではなく救援だったのです。

 持統は筑紫太宰府に出向いて礼を尽くして忠元を迎えました。そして初対面の忠元=文武大王とたちまち恋に落ち、そしてたちまち妊娠しました。この時文武は50歳、持統は31歳でした。ちなみに天武は65歳です。そして生まれたのが天武天皇の息子とされている舎人皇子です。名前の意味は隣の王子様。何という率直なネーミングでしょう。このエピソードが文武大王の光源氏ぶりを物語っています。光源氏のモデル文武大王こそ、頭脳明晰な美丈夫で善射者=弓の名手である英雄で、女性の心を捉えて離さない魅力あふれる男だったのです。

 文武大王の日本亡命を阻止しようと瀬戸内海で待ち構える大津皇子や草壁皇子。それを逃れようと、うず潮付近の危険水域を航行する文武一行。時あたかも台風シーズンで、文武一行に嵐が襲いかかり、現在の三重県志摩市大王町大王崎の沖で遭難します。これを助けたのが新羅系渡来人の大王町の住民たちです。彼らは巨大なわらじを作りそれを海に浮かべて無事文武一行を救援しました。この時のことがわらじ祭りとして今日まで大王町波切(なきり)神社のお祭りとして受け継がれているのです。文武は天武の長男なので御子様=アゴ様と呼ばれました。志摩市英虞湾(アゴ湾)や阿児町(アゴ町)という地名にそれが残されています。また「エレワカ」という民謡も残っていますが「ああ!アゴ様」という意味の言葉です。

 そして亡命から雌伏15年、持統の後ろ盾のおかげで文武天皇として即位した後、自分を助けてくれた新羅系渡来人の住民にたっぷりお礼をするために行幸しています。万葉集9ー1667太政天皇(持統)、大行天皇(文武)はその時のことを詠んでいます。「政権取りに乗り出したので、私は王位を得た。渡来のものがいるので、新羅王である私が頼って来て、渡来新羅人に助けられた」という意味の歌です。この行幸は大宝元年(701)、文武75歳、持統56歳の時でした。地名や民謡、祭りとして伝承されて1300年。古代が生き生きと証言されています。しかし現在、わらじ祭りの祭文の意味も祭りの由来も、1300年の風雪にかき消され、忘却の彼方に埋もれて忘れられています。「昔々一つ目の巨人ダンダラ法師(=台風)が悪さのし放題で、これを懲らしめるために畳一条ほどもある草鞋(わらじ)を作って海に流すと、自分より大きなものがいると恐れて退散した。それ以来海上安全と豊漁を祈って、毎年大草鞋を海に流して祈願している。」という祭りの由来が波切神社内の看板に書かれています。

 山城野の鹿狩りで、天智が天武と鎌足に暗殺され、鎌足もその際落馬して寝たきりの末合併症で死に、残った天武が天智の息子である大友皇子に勝利し天皇位についた672年の壬申の乱。続いて681年の新羅文武大王の日本亡命。この二つの大事件に次ぐ古代史の大きな事件がありました。それは柿本人麻呂が文武夫人の宮子との間に聖武天皇をもうけるという衝撃の不倫事件です。源氏物語には、朱雀院が三女である女三の宮を源氏に嫁がせ源氏の正妻としますが、女三の宮を愛する柏木が女三の宮と密通し、不倫の子薫が産まれるくだりがあります。

 朱雀院は藤原不比等、柏木は柿本人麻呂、薫は聖武天皇、女三の宮は不比等の三女宮子がモデルです。不比等は実は天武の子、人麻呂は血は繋がっていませんが鎌足の孫で、実の祖父は孝徳天皇です。華やかな源氏物語絵巻の中でモノクロームで描かれた場違いな場面は、薫の出産後女三の宮が悲嘆に暮れ日に日に衰弱、法衣姿の朱雀院が女三の宮を見舞い、光源氏が応対している場面です。女三宮は父朱雀院に出家したいと申し出るほど思い詰めています。事実、宮子は産後重いうつ病を患い、息子の聖武天皇に対面したのは、聖武が36歳になった時でした。

 不比等は激怒し柿本人麻呂を処刑します。斬首後に水刑死、遺体も見つからない無惨な死でした。万葉集に457首(歌の数には諸説あり)もの歌を残した宮廷歌人であるにもかかわらず、「生没年不詳」と処理されてきた謎の人物、柿本人麻呂の真実は聖武天皇の父という驚愕の事実でした。万葉集3−266歌柿本人麻呂作は「淡海(不比等)が突き出てきた。怒り狂っているので用心しよう。危ない崖っぷちに住んでいるのだ。昔ながらの場を守ろう。」「父親の不比等が押し出してきた。別れ波も立ってきた。君のために泣こう。無念でこのまま死ねない。首皇子を世継ぎにしようとしている輩に用心しなされ」の二重読みです。人麻呂は歌の中に、「海海浪汝古=み・み・み・や・こ」と宮子の名を入れ込んでいます。宮子を呼ぶ絶叫、天才歌人の無念の死が1300年も隠されてきました。

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