7 古代のスーパーマン役行者小角

2020年10月23日 09:12

役行者は持統天皇の甥で、多臣品治の息子である

 役行者小角は修験道の開祖、宗教家として有名ですが、あまりのスーパーマンぶりから神格化され、その実在が疑われるほど。が、彼は謎の人物どころか、れっきとした古代史の主要登場人物です。日本に本格的な製鉄をもたらした新羅皇子天之日矛の子孫であり、7世紀後半の日本で天皇位に最も近かった多臣品治。その息子が役行者その人です。多臣品治は結局天皇になれず、高句麗のヨン・ゲソムンが日本の初代天武天皇になりました。

 その天武を暗殺した天智の息子高市皇子が次の高市(持統)天皇になります。そして天皇以上の皇后であった日本書紀における神功皇后(持統皇后)が日本書紀における竹内宿禰(高市皇子)の動静を伺いながら雌伏15年の忍耐の末、愛人新羅の文武大王を日本の文武天皇として即位させます。その時、役行者の名声の高さに危機感を抱いた持統と文武勢力が、「役行者が天皇位を狙っている」との讒言をこれ幸いと、役行者を捉えて拘束します。しかし役行者が易々と脱獄したため、今度は母親=多臣品治の妻白専女(しらとうめ)を捉え拘束します。そこで役行者は母を解放するため自首し、政治には関わらない旨を約束し、葛城山に帰って製鉄に専念しました。実は、三韓統一の英雄文武大王を恐れさせるライバルであったほどの高貴な存在だったのが役行者なのです。ちなみに母白専女の祖先は「素戔嗚(スサノウ)=高句麗建国者チュモン(朱蒙)の年上の妻ソソノの連れ子で、製鉄に不可欠な木を求めて日本に渡来したスサノウノミコトと言われています。役行者は古代日本においてこれ以上ないスーパーサラブレッドだったのです。

 百科事典には「国土の7割を山地が占める日本においては、山は古くから聖なる場所とされていました。なかでも奈良県南部の吉野・大峯や和歌山県の熊野三山は、古くから山岳信仰の霊地とされ、山伏、修験者などと呼ばれる山林修行者が活動していました。こうした日本古来の山岳信仰が神道、仏教、道教などと習合し日本独自の宗教として発達をとげたのが修験道であり、その開祖とされているのが役小角=役行者です。」と説明されています。

 これに間違いはありません。しかしなぜ山は聖地とされたのか、との説明がありません。ア・プリオリに山は荘厳だ、偉大だ、だから聖地であるというのではなく、山は山でも鉄鉱石のある山が宝の山だとされたのです。日本古代史には何が欠けているかと言って「鉄の視点」がすっぽり抜け落ちています。だから大事な点が腑に落ちないモヤモヤしたものになるのです。

 山といえば木ですが、これも製鉄には欠かせません。三日三晩続くたたら製鉄には、なんと100トンもの薪が必要でした。100トンといえば一つの山を禿山にしてしまう量です。植林して元通りの森林になるのに30年を要します。そして2〜4トンの玉鋼が得られるのですが、この名刀の原料玉鋼は現在の製鉄技術をもってしても作ることができないそうです。役行者はなぜ山々を駆け巡ったかというと、鉄鉱石の山をみつけるためだったのです。役行者は最初から修験道を目指したわけではなく、製鉄の親分だったわけです。

 古代においては製鉄技術=権力で、鉄の親分=支配者だったのです。役行者の先祖は、製鉄で鳴らした新羅王子天之日矛だったのですから、すなわち製鉄は役行者の家業だったのです。物凄いスピードで山を駆け巡っていた役小角は、すなわち今日の千日回峰を満願成就した阿闍梨つまり行者となったというのが順序でしょう。山で死にかけたこともあったでしょうから、それが臨死体験、宗教体験、解脱、悟り、ヌミノースとなって役行者を宗教者に導いたというわけです。後日聖武天皇が、藤原広嗣の乱を契機として制圧した鉄の場(シマ)も、煎じ詰めれば役行者が開いたシマの数々だったのです。

記事一覧を見る

powered by crayon(クレヨン)