4 文武天皇の父は天武天皇である

2020年10月08日 12:46

文武天皇は古代律令国家日本を確立した

 日本の文武天皇は新羅第30代文武大王でした。何故日本に亡命したのか。実父が天武天皇すなわち高句麗の大宰相・大将軍の淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)だったからです。ヨン・ゲソムンは母が日本人で、高句麗で幼少期を過ごしていません。捨て子にしなければ早逝するという占いが出たという口実で、新羅の貴族に、表向きは下男として育てられたことになっています。その貴族とは、金官伽耶国が滅亡したときに新羅の貴族に編入された金庾信家です。金庾信は文武大王とともに三韓統一を成し遂げた大将軍で、金官伽耶の建国者金首露の直系子孫です。

 ヨン・ゲソムン15歳の時、金庾信の妹宝姫と結ばれ、男の子が生まれます。それが法敏=文武大王です。しかしそれがもとで、ヨン・ゲソムンは金庾信の家を追われました。そして文武大王は、金庾信のもう1人の妹文姫と王族金春秋の長男として育てられます。

 王族とはいえ新羅の骨品制という厳しい身分制度のもとでは新羅の王にはなれない金春秋と、世が世なら金官伽耶の王であったはずの金庾信、そして徹底した反唐主義者の高句麗大将軍ヨン・ゲソムンの三人の思惑が、法敏文武を中心にある形を作っていきます。金春秋は新羅の王になり、ゲソムンは高句麗を3人の息子達に託して日本に定着し天武天皇となりました。金庾信は甥の法敏を金春秋の次の新羅王に据え、協力して韓半島を統一し、さらに20回以上の激戦を制して遂に唐帝国を韓半島から撃退しました。

 しかし唐帝国お得意の内部撹乱の結果、新羅内部に親唐クーデターが計画されます。そこで文武大王は長男神文王を即位させ、自身は死んだことにして日本に亡命します。しかし大津皇子、高市皇子、藤原不比等(鎌足の息子とされていますが実は天武と鏡王女との間に生まれた息子)など、日本生まれの天武の息子たちがこぞってこの亡命を阻止しようと瀬戸内海を封鎖します。

 そのため、やむなく鳴門のうず潮近くを航行せざるをえなくなりますが、時あたかも台風シーズン、文武の乗った船は転覆、それを現在の三重県志摩市に住んでいた新羅系の渡来人の子孫が救助します。その時の様子は千三百年以上経った現在も、志摩市大王町波切神社のわらじ祭りとして残されています。大王町という町名自体が文武大王を表していますし、志摩市英虞(あご)湾のアゴは朝鮮語のお子様、すなわち天武天皇の長男である文武大王の日本での呼び名です。

 天武天皇存命中に、文武との不倫の子、舎人親王を生んだ持統皇后。その秘密の重さに耐えられなくなった者がある真夜中のこと、「持統が文武の子を生んだ」と絶叫し、命を経ちました。その晩の使用人たちには口止め料として昇進が約束されたと言われています。また天武天皇の暗殺後、その死を秘して、文武との第二子多紀皇女を生み、天武の末娘として編入しています。

 また天武の死後、天皇位についた高市時代、文武は吉野に逼塞していましたが、持統は有名な吉野通いをしています。7年間にわたり計31回。お供を引き連れて吉野の文武のもとに、最初は3泊4日、のちには10泊以上も滞在し、世間の批判をあびました。しかし、機を見て、兄多臣品治に命じて高市を暗殺させ、その功に報いて褒美を与えています。雌伏15年、71歳の文武がとうとう即位します。ここまで粘り強く待ちに待って、遂に愛人文武を天皇位につかせた持統。しかし、女傑持統も我が子には敵いませんでした。いつかは女帝に、と帝王教育を施してきた愛娘多紀が高安王(文武と富豪車持氏の娘県犬養三千代との間に生まれた)と結ばれてしまいます。そして生まれたのが、のちの道鏡です。この打撃に耐えられなかった持統は、病を得て失意のうちに没してしまいます。

 文武天皇の10年間の治世で古代律令国家日本が確立します。統一新羅を作り上げ、唐帝国を韓半島から駆逐した文武天皇にとって日本の統治は、水を得た魚のように心躍る営みだったでしょう。雌伏15年と治世10年を合わせて25年。25歳で夭折した文武天皇のイメージはここから着想したものと思われます。それにしても文武大王=文武天皇は、8世紀の初め81歳でなくなりますが当時としてなんと長命だったことでしょう。最晩年の老帝文武天皇を支えた女性がいました。源氏物語の中の夕顔のモデルである天智の娘、阿於皇女すなわち元正天皇でした。

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