3 持統皇后と愛人文武大王

2020年10月06日 10:42

持統皇后は古代最大の政治家だった

 古代の最先端技術は、稲作と製鉄です。特に製鉄は権力の源でした。石器時代に続く青銅器時代、そして鉄器時代が到来し、それが現在も続いています。世界で最初に鉄器が使用されたのは古代オリエントのヒッタイト王国においてです。現代の世界で、どこに住んでいようとも、人々がスマホや携帯電話を求めるのと同じ原理で、古代の世界においては鉄器が求められました。鉄は金よりも高価でした。

 2世紀の半ば、新羅王子の烏延郎(ヨン・ウォラン)という製鉄技術者が日本に渡来しました。天之日矛です。その子孫の系統を継ぐ一族の一つが、7世紀半ば大和地方に覇権を敷いた蘇我氏一族です。ソは鉄、ガは磨ぐを表す朝鮮語ですが、その蘇我氏を中大兄皇子=天智と藤原鎌足連合の百済系勢力が滅ぼした政変が、645年大化改新(乙巳の変)です。

 天之日矛の直系子孫の中枢にいたのが天武天皇皇后持統の兄である多臣品治でした。天武天皇の母は品治の妹ですが、天武皇后の持統もまた品治の妹です。つまり高句麗の大宰相・大将軍だった天武は、由緒正しい日本列島最大の実力者一族出身の母を持っていたが故に、また同じくその名門出身の妻と政略結婚したが故に、天武天皇になれたのです。妻持統は天武天皇の叔母だったわけで、30歳以上も年下の妻持統に、天武は頭が上がらなかったと言えるでしょう。しかし天武は日本語・朝鮮語・中国語を自在に駆使する国際人で、広い教養を持つ英雄でした。天武が滅亡寸前の高句麗に見切りをつけ、日本の天武天皇として治世を行ったから、日本は古代律令国家を確立する端緒を拓くことができたといえます。

 多臣品治は日本に亡命した天武の強力な後ろ盾であり、自身は当時最も天皇位に近い存在でした。多臣品治の妻はこれまた素戔嗚(スサノオノミコト=アマテラスの弟)に連なる名門の出身白専女、息子は古代の山岳山伏宗教の祖、古代のスーパーマン役行者です。また役行者の娘は新羅32代聖徳王に嫁いだ、かぐや姫その人です。日本人なら誰でも知っているかぐや姫は、桃太郎と同じく実在の人物がモデルであったのです。

 華麗なる一族の総帥として日本の支配者の椅子の最も近くにいた多臣品治でしたが、結局天武の臣下として終ります。品治は妻の白専女に殺され、また白専女も品治の後を追って入水自殺を遂げるという悲劇的最後を迎えます。白専女が品治を殺したのは、息子役行者が時の文武天皇を退けて自分が天皇位につこうとしていると讒言されて投獄されたのを助けようとして、自分たちに政治的野心はないということを訴えるためでした。現存するキトラ古墳の被葬者は多臣品治であると言われています。

 さて文武天皇とは誰でしょう?通説では、持統の息子草壁皇子の子、すなわち持統の孫で、若干25歳で没した夭折の天皇と言われています。しかしそうではありません。日本の文武天皇とは、新羅の第30代文武大王その人です。高句麗、百済を滅亡させ、三韓統一を成し遂げた朝鮮の英雄がなんと文武天皇なのです。これは日本古代最大級の公然の秘密でした。

 文武大王は、唐帝国と手をむすび百済・高句麗を滅亡させましたが、朝鮮半島の支配を目論む唐と結局は対立します。文武大王の息子神文王の舅金欽突が、唐と結託してクーデターを起こそうとしていることを事前に察知した文武大王は、自身を死んだことにして神文王を大王に即位させ、日本に亡命します。文武大王56歳の時です。何故日本に亡命したかというと、文武大王の実父が天武天皇だったからです。しかも天武皇后持統と結ばれ2人の子供までなすほど持統の強力な後ろ盾を得たからです。

 義理の母と息子との不倫。これまた古代最大級の公然の秘密でした。文武天皇は天武天皇の子供なのでアゴ(朝鮮語で、子供の意)様と呼ばれ、弓矢の名人(善射者)であり、堂々たる体躯と眉目秀麗なその存在は、上流階級の女性の視線を一身に集め、天皇に即位するまでの雌伏15年の間次々と女性遍歴を重ね、たくさんの子を成しました。たくさんの女性と次々と浮名を流す稀代の貴公子といえば思い当たることはありませんか。そうです、平安時代の源氏物語の主人公光源氏です。文武大王=文武天皇こそが光源氏のモデルだったのです。桃太郎もかぐや姫も光源氏でさえも実在の人物がモデルだったとは、まったく驚きます。

 たくさんの女性遍歴を重ねながらも、文武大王が最初から最後まで愛し続けた女性は持統皇后ただ1人でした。何故なら持統あっての文武だったのですから。持統は天武天皇の息子大津皇子を処刑し、我が子である草壁王子さえも殺して、まず高市王子を天皇に即位させました。そして高市天皇(つまり持統天皇)の治世をじっと耐え、ついに高市天皇も殺して、愛人文武天皇を即位させました。雌伏15年、反対勢力を次々に葬り去って、最愛の文武を即位させた持統皇后は、まさに古代最大の大政治家であったと言えるでしょう。

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