2 天智天皇は百済王子翹岐である

2020年10月01日 21:44

 天智天皇は、正式な天皇として即位していなかった

 天智天皇は中大兄皇子で、大海人皇子=天武天皇の兄とされています。しかし、実は百済の王子翹岐(ヒョーギ)であり、天武天皇とは赤の他人でライバルでした。中大兄は、百済30代武王とその妃寳王女の子供で、百済最後の王、義慈王の異母弟です。百済の政変により、寳王女と双子の兄妹である中大兄皇子と間人皇女、中大兄の異母妹鏡王女、寳皇女のブレーン額田王は、家臣共々日本(シマ)に放逐されました。

 中大兄の母寳王女は、来日するや否や、斉明天皇となりました。韓半島南部の伽耶諸国と日本はすなわちひとつの国であり、寳王女は百済の伽耶系の出身だったのです。斉明天皇の夫は舒明天皇で、舒明は百済の武王その人です。寳王女の前夫は高向玄理。武王とは再婚だったようで、武王の略奪婚と言われています。

 双子である中大兄と間人は同母兄妹でありながら関係を持ち近親相姦の大罪を犯していました。それも百済を追われる一因となっていたようです。この不倫に対する世間の目は厳しく、斉明天皇の次に即位した孝徳天皇(斉明の弟と言われています)の妃として中大兄は間人を手放しますが、孝徳が失脚して斉明が皇極天皇として重祚すると、またまた間人を手元に呼び寄せます。しかし、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗北を喫し、唐の脅威から国を守るために山城を築いて国費を使い果たし、鉄鋼財閥だった藤原鎌足にも愛想を尽かされかけていた中大兄はついに間人を殺します。即位の障害となっていた絶世の美女間人の死でいよいよ本格的に天智天皇として即位しようとした直前、天智は天武天皇と藤原鎌足によって山城野の鹿狩りに乗じて暗殺されてしまいました。天智は結局天皇にはなれませんでした。

 中大兄は、九州の海洋豪族宗像徳善の娘尼子娘との間に双子の息子を、異母妹の鏡王女(母は新羅の善花公主)との間に双子の娘をもうけました。自身も双子、息子たちも娘たちも双子と、中大兄は双子の家系でした。息子たちは、大碓と小碓といい、小碓は高市皇子で、又の名はヤマトタケルです。小柄で整った顔立ちをしており、女装してクマソタケルを殺したことが神話には描かれています。兄の大碓を軟弱だからといとも簡単に殺すなど、可愛い顔の裏に凶暴な本性を隠し持っており、周囲に恐れられていました。百済の王子中大兄の息子なので百太郎(桃太郎)と言われましたし、唐帝国の手先となって天武天皇を暗殺したので「唐小僧」とも揶揄されました。これが桃太郎(高市皇子)の鬼(天武天皇)退治の真相です。

 日本人なら知らない人のいない桃太郎の昔話。では桃太郎に黍団子を持たせて加勢したおばあさんは誰?黍=吉備=岡山県とゆかりの深い新羅系渡来人出身の天武皇后持統その人です。持統は天皇(女帝)と言われていますが、あくまで皇后で、天武の次の持統天皇とは実は高市皇子なのです。しかし、持統皇后は結局高市皇子を殺して、愛人である新羅第30代文武大王を文武天皇として即位させますが、そこに至るまで神経質なほど高市を意識し、警戒しています。

 現在の福井県敦賀市気比神宮で、桃太郎のお守りを売っていることを知っている人は少ないと思いますが、氣比神宮と桃太郎にはどんな関係があるのでしょうか。氣比神宮のあるところには、渤海からの使節をもてなす客館が建っていました。渤海は天武の同族である大祚栄(テ=ジョヨン)が建国した高句麗の後継国です。天武は息子である大津皇子らの暗殺計画から渤海に逃げようとしてこの地まで来ましたが、結局この地で待ち構えていた高市皇子に弑逆されました。天武の霊を慰めるためにその跡に建ったのが気比神宮なのです。高市皇子は天武天皇を殺して持統天皇となりました。天武は桃太郎に殺されたのです。

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