1 天武天皇は高句麗の淵蓋蘇文である

2020年09月24日 21:24
カテゴリ: 黎明期の日本

日本で初めて天皇を名乗ったのは天武天皇である

 日本の原住民族はアイヌ民族であるとされています。狩猟採集経済を営んでいた縄文の民です。しかしその数はわずかで、ほとんどガラ空きの日本列島に、稲作技術と製鉄技術を持った渡来人が次々に韓半島から日本列島に渡ってきました。先住のアイヌ人と渡来人の比率は2:8、あるいは1:9というのが現在の通説になっています。

 それでは日本という国号はいつできたのでしょうか。天皇という称号はいつ生まれたのでしょうか。それまでも中国の魏志倭人伝には3世紀の日本には邪馬台国があって女王卑弥呼が治めていたとか、日本最大の前方後円墳である百舌鳥大仙古墳が5世紀前半から半ばにかけて築造されたなど様々な政権が日本にあったと言われていますが、初めて統一国家をイメージし、日本という国号を用い、天皇を名乗ったのは7世紀の天武天皇です。

 天武天皇は、日本で最古の鋳造貨幣も作りました。これを富本銭と言います。富本と日本は同じ意味の言葉です。天武天皇は、大国高句麗の宰相であった父と日本人の母から生まれたバイリンガルです。その母は、2世紀に渡来した新羅皇子天之日矛の子孫である名門多氏一族の娘で、天武皇后である持統の姉です。

 天武天皇の父の国、高句麗とはどんな国でしょうか。現在の日本人にも密接に関係するエピソードを一つ見てみましょう。日本の数の数え方にはいろいろあります。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、とおと読む数え方はそのうちのひとつです。このもとになっているのは、ヒィ、フウ、ミィ、ヨォ、イツ、ムゥ、ナナ、ヤァ、ココノツ、トォという昔からの数え方なのですが、これがなんと高句麗の数詞そのものなのです。ひぃふぅみぃよぉ、、、という日本の古い数詞は高句麗からの渡来人がもたらしたものだったのです。

     数詞   読み       意味

     一    ビ        鮮卑国
     二    ブタ       から
     三    ミル       押せ
     四    ヲル       上の
     五    ウチャ      冷たい
     六    ムッ       大陸(扶余国)
     七    ナヌン      分けた
     八    エエ       穢(東穢)
     九    ゴォゴォノォ   それ入れて
     十    ドォ       全部 

 高句麗の数詞は、一から十までの読み方が、一つの文を表しており、その意味は「西隣の鮮卑から先に押し出せ。北方の寒い大陸(扶余国)と、昔別れた穢(東穢)も加えて、全部を高句麗が支配することにしよう。」となります。高句麗は、大陸の根元を横断する鴨緑江の支流に発生し、河から河へ、谷から谷へと領土を広げていきました。西には鮮卑国、東には東穢。この東穢が、高句麗より一足早く日本に渡ってきた先住民族「八百万の神々」です。言葉に込められた念願はついに叶って、高句麗は大国になりました。

 日本では大海人皇子、後の天武天皇として知られている人物は、高句麗では大宰相そして大将軍の淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)でした。朝鮮人なら知らない人はいない、日本で言えば織田信長のような歴史上の有名人物です。赤毛、赤髭で、いつも背中に5本の刀を背負い、『金海兵書』を著し、陰陽道にも優れ、資産家でもある、泣く子も黙る強面の大将軍です。高句麗でクーデターを起こし、王を殺して政治の実権を握り、中国唐帝国の第二代太宗李世民との死闘にも勝利し、その名を轟かしたヨン・ゲソムンは、日本でもクーデター壬申の乱に勝利して政権を握り、晴れて天武天皇を名乗りました。

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