紀元前から新羅、高句麗、百済は名だたる製鉄国であった。しかし「木」が問題だった。山野から木を伐り、その木で大量の炭を焼かない限り製鉄はできない砂鉄10トンを溶解するのに炭は12トン使われるその12トンの炭を作るには1haの山林が必要だ。しかもその「丸裸になった山」が回復するのに30年もの歳月がかかるという。韓半島の木は恐ろしい勢いで切り倒され、半島は当然「木」不足になった。3〜4世紀ともなると韓半島の製鉄王たちは「木の国」日本に進出することになる。この「製鉄王たちの大移動」に伴ったモニュメントこそ前方後円墳なのだ。
韓半島における前方後円墳の開始者は古朝鮮の二代部族「狛と穢」のうちの「穢人」だった。日本では「八」と呼ばれていた製鉄技術や航海術に長けた優秀な集団=八百万の神々であった。韓半島の南部を流れる大河洛東江(525.15キロ)流域にはかつて新羅はじめ六伽耶または五伽耶とも呼ばれた伽耶連合国が屯していた。しかし金官伽耶はこの伽耶連合の一員ではない。伽耶連合の盟主だった大伽耶の伊珍阿鼓(イジンアシ)は「聖なる穢の原の御子」、「聖なる原の砂鉄」という意味の名前である。
このイジンアシこそ「大八島国」つまり日本列島を産んだ男神伊弉諾(いざなぎ)である。『日本書紀』や『古事記』はイザナギ・イザナミを「実の兄弟であった」としている。イジンアシは金官伽耶国の建国者金首露(キム・スロ)の異父弟であった。キム・スロは金官伽耶国を建国したが、伽耶連合には参加しなかった。異父兄妹の葛藤によるものだろう。
キム・スロ王は即位して24年経っても結婚しなかった。王は、天が妃を決めて送ってくれると言って、臣下の結婚の勧めに応じなかった。ある日王は、インドのアユダ国の王女許黄玉と結婚した。華麗な国際結婚から金官伽耶の歴史は幕を開いているのである。金海市の亀旨峰から無隻山一帯の生鉄里に至るまで、鉄鉱石は営々と掘り出されていた。栄華は5世紀まで続いたが、新羅22代智証王(位500〜514)の時代に、金官伽耶から新羅に鉄のバトンタッチが始まる。そして智証王の息子第23代法興王(位514〜540)の時代金官伽耶はついに滅亡する。