159 かぐや姫こと聖徳王妃の父は役行者

2024年11月02日 20:03

役行者は多臣品治の息子で文武と皇位を争った

 新羅聖徳王妃=成貞王后は『源氏物語』では宇治の優婆塞(うばそく=在家の僧)八の宮の長女大君として登場する。明るく快活な妹中君に比べて、沈着で思慮深い性格。父親八の宮は仏道修行に日々を送っていて、美しい姫たちの処遇を思いあぐねていた。大君は、源氏の妻三の宮と柏木との不義の子薫に求婚されるが頑なに拒む。薫は、不比等の孫である首皇子すなわち後の聖武天皇がモデルである。
 かぐや姫こと新羅聖徳王妃の父は『三国史記』によると乗府令大臣である金元泰。しかし実父ではない。義理の父である。宮廷と縁の薄い王妃のうしろだてとして高官を「義父」とする場合、たいてい乗府から選ばれている。古代の日本においては「車持氏」がこれを受け持っている。天智が鏡王女を藤原鎌足に降嫁させた時も車持氏を義父としている。鏡王女の息子不比等が「車持」と指称されていたのはこのことによる。
 かぐや姫こと聖徳王妃の婚礼が行われた704年の前半、日本国使臣が204名も集団で新羅にやってきている。聖徳王代は新羅の全盛期であった。首都徐羅伐の人口が100万を超えた時代だ。日本から統一新羅にやってきた人々の中にはかぐや姫の実父八の宮こと「役行者」の姿も見えた。古代のスーパーマン、修験道の祖、そして謎の多い人物である。
 孫である聖徳王の嫁取りまで心配した文武天皇。かつては天皇位を争ったライバルである役行者(多臣品治の息子であり、日本の名門天之日矛の子孫)の娘を孫の嫁に迎えたのだ。この時代の82歳まで生きた文武。韓半島の三国統一を成し遂げ、古代日本の律令政治の基礎を築いた文武もまた古代のスーパーマンであった。

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