唐に渡っていた金庾信の長男三光が文武王6年(656)6月新羅西海岸の港塔項津に到着する。三光はこの時点で塔項津から日本に渡ったとみなされる。高句麗の宝蔵王が新羅に降伏したのはその年の9月21日。「三国統一」目前の新羅をすんなり受け入れる唐ではない。新羅侵攻を強硬に続けていた。この唐にどう対処すべきか。金庾信は日本で勢力を築いていたヨン・ゲソムンの都力を合わせることを考えた。統一新羅と新生日本の協力がこの時点から始まった。
日本が国号を初めて「日本」としたのは、672年天武天皇ことヨン・ゲソムンによって、である。金庾信の長男三光は唐に留学、寺刹で加持祈祷の訓練を受けていたと思われる。この加持祈祷は8、9世紀の日本で大いに流行した。藤原不比等がその先頭にいたと思われる。しかし加持祈祷以前に三光が日本で敢行したことがある。なんと日本の三種の神器の一つ「草薙の剣」はを盗んで新羅に持って行こうとしたのである。
天智7年(668)の『日本書紀』に不思議な記述が見える。「沙門道行(三光の僧侶名)草薙剣を盗みて新羅に逃げゆく。而して中路雨風に会いて惑いて帰る。」道行という僧については、「記紀」の上ではこれ以外に現れないが、愛知県知多半島北部の知多市にある名刹「法海寺」は道行を開祖として信仰を集めている。「法海寺」の由緒には「往昔、新羅国明信王の太子道行法師なむ謂える僧、父明信の命を受け、我が国に渡来して熱田の宝剣(草薙の剣)を盗み逃げ去らむとしけるも事実発覚して多見洲(尾張)星崎の里なる土牢に囚われた」と記されている。道行こと三光はなぜ草薙の剣をを盗み新羅に持って行こうとしたのだろうか。
日本の宝剣とされてきた草薙の剣は実は金官伽耶国(42〜562)の建国者金首露の王剣だった。金官伽耶国は今の釜山市金海の地に存在した古代国家である。狗邪国とも賀洛国とも呼ばれており製鉄・貿易で栄えていた。古代韓国語で「建国王」はナギと呼ぶ。伊弉諾(イザナギ)のナギである。グサナギとは「グサ建国王」すなわち「金官伽耶建国王」となる。このグサナギを日本では「草薙」という漢字で表記した。
新羅30代文武大王の叔父金庾信は、金首露王の直系子孫である。しかし562年金官伽耶は滅亡、新羅に併合され、王族たちは新羅の貴族として編入された。666年11月5日文武王は高句麗の捕虜7千人を引き連れ王京に凱旋する。もし金首露王の王剣を取り戻すことができたら、この三韓統一を祝う最高のギフトとされただろう。この凱旋に合わせ金庾信の長男三光は日本に行き宝剣を手に入れた。しかし新羅に帰る途中西北風の台風にあって押し返される形で四国の南端に流され、囚われの身になったのである。
金庾信は父金舒玄が庚申日の夜、二つの星が空から降りてくる胎夢を見て生んだ長男だった。そこで舒明天玄は息子の名を「庚辰」にしようと思ったが、「日月で名前をつけることはしないものだ」と思い返し、「庚」に似た字「庾」と「辰」に似た音の「信」を選び「庾信」としたという。天文説によれば、日・月の合宿を「辰」と呼ぶ。この「日」「月」を合わせれば「明」の文字になる。従って「辰」=「明」の字になる。すなわち「庾信」=「明信」の等式が成立するのである。世が世なら庾信は金官伽耶の「王」であり、三光は「太子」であったはずだ。三光を道行としているのも面白い。「三」は「み」、「みつ」と訓まれる。ミル、ミ、ミルチ、ミチは同語で、「三」のミチは「道」ので訓「みち」に通じる。また「光」と「行」はどちらも「こう」と読まれる。要するに三光を吏読風にもじった名前が「道行」であると推量されるのだ