155 新羅文武王の父は日本の天武天皇、母は金官伽耶直系子孫金庾信の妹宝姫

2024年10月31日 10:11

高句麗の大莫離支(大宰相)で大将軍淵蓋蘇文が天武天皇の正体である

 韓国に現存する最古の正史書『三国史記』はなんと大将軍金庾信の妹2人の夢物語を紹介することから、韓半島統一の英雄文武王のストーリーを展開している。
 「……文明皇后(金春秋=武烈王夫人)が王后になる前のことである。姉の宝姫が西兄山の山頂に登り、屈んで小水をすると、それが流れて王都徐羅伐を水浸しにする夢を見た。夢から覚めて姉がその話をすると妹は笑いながらその夢を買うといい、夢の代金として絹のスカートであるチマを姉にやった。その数日後、金庾信と金春秋は蹴鞠遊びをしたが庾信が謝って春秋の上着チョゴリの結び目を踏みちぎってしまった。そこで庾信は春秋を自分の家に連れてゆき、宝姫を呼んだが出てこなかった。そこで妹の文姫が出てきて紐を縫い付けた。春秋は文姫を見てすっかり気に入り、やがて結婚を申し込んで指揮を挙げた。それから文姫は身籠り産んだ男の子が法敏=文武王である。……」
 『三国史記』同様『三国遺事』にも法敏出生の話がさらに詳しく述べられている。文姫は婚前妊娠をしていたというのである。怒った庾信は文姫を焼き殺そうとし、煙に気づいた善徳女王の計らいで文姫と春秋は結婚し無事法敏は生まれた。だが実はこの時点で法敏を孕っていたのは文姫の姉の宝姫であった。父親はなんと高句麗の大宰相の息子淵蓋蘇文当時15歳であった。
 高句麗の大宰相が50歳の時に生まれた一人息子が淵蓋蘇文である。母親は日本の製鉄名門の一族石川氏出身で後の天武皇后持統の姉。「15歳になるまで捨子にして他人の家で育てないと早死にする」とある高僧に言われ、泣く泣く高句麗南部の国境に近い新羅領萬努郡に住んでいた庾信の父舒玄公邸前の川縁に「捨てた」。以降15歳になるまで蓋蘇文(ゲソムン)は庾信家の「下男」として育つが、ゲソムンの父「初対面」したのは天武4年(675)日本においてである。壮年に至り、初めて「父」に出会った感動は如何なるものであっただろうか。その後新羅文武王は7世紀後半日本に亡命し、日本の文武天皇になった。しかも実父は高句麗の大将軍淵蓋蘇文であり、淵蓋蘇文は日本の天武天皇であった。「事実は小説より奇なり」。これが日本の7、8世紀の実態なのである。実際7、8世紀の東アジアは何があっても不思議ではないほど劇的な時代であったといえる。

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