152 岐蘇路開通、一石三鳥の事業なる

2024年10月18日 15:34

文武80歳の晩年を彩る元正A45歳

 美濃国の岐蘇路が開かれたのは大宝2年(702)12月である。文武即位(698年)の4年後のことだ。岐蘇路を開くことは新天地東国への路を開くと同時に、大いなる山の木々で船を作り、殿閣を作り、そして何よりも炭を作ることができる。それは文武にとって嬉しい産業革命的な出来事であったと思われる。日本に来て天皇になっても文武は以然新羅の文武大王だった。
 応神紀歌謡41の最後の部分。「斗那詞能」までは日本語。「門中の」の意味。つまり和歌山県西端の小島沖の島と淡路島の東南端の由良の海辺との間の由良の瀬戸(友ヶ島水道ともいう)をいう。この辺りは、今「生石崎」と呼ばれているが、岬の名は「生石鼻」である。海岸地方にかつて「生石(いくり)」と呼ばれた小岩がごろごろ連なっていたからであろう。イクリは古代韓国語である。正しくはイッグリつまり「つながり転がるもの」。
 「鉄よ、鉄よ(サヤ、サヤ)」とさやかに音を響かせたという余燼(もえくい)の琴は一体どこで弾かれたのであろうか。大阪湾、武庫川入江の南向かい側、大阪府泉佐野市であったと断定される。文武の死後7歳だった首皇子に繋ぐ天皇として不比等の同母姉双子の元正A(飯豊青皇女)と元明が即位した。泉佐野は飯豊青皇女が好んで住んだ地である。飯豊青の弾くさやかで金属的な琴の音を聴き、文武は強力なインスピレーションを受ける。官船をなぜ「枯野」と名付けたのか。その船は軽く浮いて早く進むことまるで滑るようであった。そのため「軽野」と名付けられたが、後人が訛って「枯野」となったとされているが、真実は「からの」という語音を韓国語に当てはめると「ガラ」となり「行け!遊べ!」の意になる。滑るように早く進むその船に愛情を込めて「行け!遊べ!」と名付けたのだ。

記事一覧を見る