枯野を塩に焼き これが余り琴に作り かき弾くや由良の瀬戸の門中の
海石(いくり)に火に焼かれても広がる気配は さやさや
『日本書紀』 応神紀歌謡41
官船枯野を焼いて塩にし、その残りで琴を作り、かき弾いたら
由良の瀬戸の海に連なる石に、火に焼かれても広がる気配はさやさや
応神紀と仁徳紀では話のニュアンスに相違があるが、「枯野」と名付けられた高速船が老朽化し、その廃材を使って塩を焼いたところ燃え残りがあり、それで琴を作ったら、遠く響く音がしたという点が共通する。
それは秘中の秘であったと見える。まず木片を焼き半焼きの炭にする。この半焼きの炭を大量に作る。日本は「木の国」。木はいくらでもある。古代の製鉄には半焼きの炭が用いられた。半焼きの炭を新羅に送る。炭は軽く生の木材を運ぶよりずっと簡単だ。美濃国の大密林、岐蘇(木曽)の山路を開けば炭作りはもちろん、船造り、宮殿づくり、寺院建立のための木材運搬に至るまで可能になる。
新羅は上代から上質な鉄造りで名をなし、製鉄国の名声を得ていた。しかし燃料としての木材不足に早くから悩んでいた。新羅第二代王の諡号は「南解(ナムゲ=木)」。植林に明け暮れた王の意である。
枯野の焼残りで作った琴を弾いたら遠く淡路島の南東端由良の瀬戸にまで届いた。その音は文武の耳には「さやさや=鉄だ、鉄だ」と聞こえた。木を焼いて半焼きの炭にして新羅に送れば手っ取り早く鉄ができる。文武の脳裏にこの一言が稲妻のように閃いたのだ「そうだ!炭を焼いて新羅に送れば良い!木の心配をせずに製鉄ができる!」
文武の即位は697年8月。しかし正式な即位は698年正月藤原京の太極殿において文武百官と新羅朝貢使金弼徳らの拝賀を受けて行われたと思われる。701年大宝律令が領布されて国づくりが始まる。開拓の第一歩は岐蘇の豊富な木の伐採であった。