150 王仁、菟道稚郎子は穢系、仁徳は狛系

2024年10月14日 16:39

15代応神天皇の子であり、16代仁徳天皇の弟であった菟道稚郎子

 応神天皇とされる王仁博士=百済辰孫王は第14代近仇首王の孫であったが第13代近肖古王の影響を受け、早くから製鉄に励み鉄の山、月出山とその周辺の霊巌を開発、ここから日本に渡ったと思われる。霊巌は大河栄山江上流に位置しているが、この川ベリには112基とも113基とも言われる前方後円墳が連なっていて濊人製鉄工たちの豪勢なあり方を見せてくれる。応神天皇は亡くなる一年前、皇后や多くの妃が産んだ皇子をすべて退け、最も愛する菟道稚郎子を立てて天皇の後継とした。しかし応神天皇の死後3年の歳月が経ってもなお郎子は皇位に就こうとしなかったので「皇位は空のまま三年経った」と書記は述べている。そこで郎子は自殺を敢行、仁徳が皇位につき、難波に居を定めたという。
 仁徳天皇35年の夏6月、皇后磐姫は山背の筒城宮で亡くなる。そして37年11月那羅山に葬られた。翌38年春正月に仁徳天皇は郎子の同母妹八田皇女を皇后に立てた。八田皇女は磐姫が足摺りしてまで嫉妬した恋敵である。磐姫も去ることながら、仁徳の思い入れも徹底している。しかし単なる愛情問題を超える政治的対立がここにあった。いわゆる「八と雲」、「濊と狛」の葛藤である。5世紀の日本におけるこの熾烈な争いは7世紀後半の百済系天智と高句麗系天武との政権争いに至るまで延々と続いた。

記事一覧を見る