書記「応神天皇条」を叙述したライターはこの天皇の和風諡号「誉田」で文武を、漢風諡号「応神」で王仁を二重に記述した。百済の辰斯王が王位に就いた時、日本の天皇に「失礼(あやなし)」したので百済王が辰斯王を殺し阿華王を王(こにきし)にして帰国したとあるが、百済王だった辰孫王が日本にやって来た王仁、すなわち応神天皇だったとすれば、このストーリーは納得できる。
「王仁博士(辰孫王)」が住んでいたとされる韓国全羅南道の霊巌。ここに道岬寺がある。この寺はかつてドソヨンがいた寺で、その入り口に二つの立石が並んでいる。「国長生」と「皇長生」の刻字であるドソヨン国師(827〜898)は僧侶で風水の大家。高麗の始祖王建の誕生を予告したことで有名である。ドソヨンが4世紀の百済霊巌から日本の難波への民族大移動を知らなかったはずはない。「国長生」の国は「日本における百済国」で「皇長生」の皇は日本の天皇になった辰孫王のことではないのか。『記紀』はこの事実をひたすら隠しているが「皇長生」の3文字でことの全貌は明らかにされている。「王仁博士遺蹟地」は月出山国立公園の麓にある。最高峰を天皇峰(チョンファンボン、809M)と呼ぶ。日本に行き、「天皇」になった辰孫王を象徴した山名であると言える。応神天皇の跡を継いだのが仁徳天皇である。