148 応神天皇は王仁博士と新羅文武王のミックス

2024年10月09日 17:08

『日本書紀』の「小説作法的」書き方

 『日本書紀』応神天皇紀のくだりの書き方は特に「小説手法的」だ。生存時代の異なる二人の天皇の生涯を「応神」という一人の人物のヒストリーにまとめて書き上げているからだ。要するに合体隠蔽法である。4〜5世紀と7〜8世紀のまるで異なる二つの時間帯を韓国と日本で生きた人、いや韓国から日本にやって来て各々「天皇になった2人の人物を一つの顔にまとめて英雄化しているのである。
 5世紀と8世紀は日本が一段と開かれた時期だ。百済と新羅で王座もしくは王座近辺にいた人物が日本に来て天皇になったとは言えない。かといってその人物の存在を無視することもできない。そこでこの2人を一まとめにして「応神天皇」という架空の人物を作り上げた、というのが事の真相である。
 まず1人は文武天皇である。日本国の基礎を固めた天皇で、弓矢の名人ボンムダ(誉田=ほむた)こと応神天皇こと文武天皇。しかし応神にはもう一つの顔がある。「王仁」という驚くべき顔である。「王仁(わに)」は「おうじん」と読める。王仁が来たとされる応神16年は西暦405年にあたる。王仁博士(生没年不詳)は辰孫王と共に日本に渡来し、千字文と論語を伝えたとされる伝承上の人物である。しかし千字文は梁の武帝(502〜549)の命により作られたとされているので、この時にはまだ存在していない。そのため王仁の存在自体を架空とする説がある。辰孫王は百済の王族。近仇首(きんくす)王の孫で辰斯王の息子である。祖父近仇首王の命で王仁博士と共に船で全羅南道霊巌郡から日本に渡ったとされている。王仁と辰孫王はなぜ日本に行かざるをえなかったのか?

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