144 「わだかまり」の語源はバダカマリ

2024年09月29日 16:30

神功皇后の新羅征伐は日本史最大のわだかまりである

 「受けて」の意のバダ、「巻きつくこと」の意のガムリの古形ガマリ。要するに「大蛇に巻きつかれた状況」が「蟠り(わだかまり)」である。日本史にトグロを巻き、複雑な曲がりくねりで長期に渡り、韓国人の憤懣を煽ってきた神功皇后の新羅征伐。神功皇后こと持統が新羅征伐なるものを行ったとすると、それは何時、何故、どのように行ったというのであろうか。
 西暦681年7月新羅王文武が新羅の首都徐羅伐(ソラボル)で亡くなる。しかし文武王は亡くなったことにして日本に亡命した。文武は宮廷内に「親唐クーデター」が起こることを事前に察知し、「王の死」という前代未聞の偽計で謀反に対応したのだ。文武は徹底した反唐派であった。この根っからの反唐派が韓半島の三国を統一した。唐にとって文武はまさに目の上のたんこぶであった。唐はこのこぶを取り除き、金春秋の実子で文武の従兄弟である金仁間を新羅王に据えようと図っていたのである。それに対して文武は、自身を死んだことにして、長男の神文王を即位させ、8月8日クーデターを速やかに平定する。
 『日本書紀』の天武9年(680)、「槻の枝が自ら折れた」と文武王の「自作崩御」を表す隠喩がある。文武が日本に亡命したのは681年。ということは、文武の日本亡命を『書記』は一年前に予告していたことになる。当時、日本の天皇は天武、高句麗の大宰相であったヨン・ゲソムン、文武王の実父である。日本人を母とするヨン・ゲソムンは、幼くして日本を離れ、新羅のキム・ユシン(金庾信)大将軍の家で表向きは下男として成長するが、キム・ユシンの妹宝姫と恋に落ち、文武が生まれた。ヨン・ゲソムンは度々来日し、大海人皇子として活躍した。
 『書記』は「仲哀紀」「神功皇后紀」という仮の時代を作り、実際にあった天武末期の新羅朝廷における反乱、およびその平定、文武王の日本亡命など激動の経緯を事細かに取り上げている。少なからぬ援軍が新羅の内乱鎮圧のため日本から送られた。持統は文武を愛していた。その類稀な国家経営能力、武術力、そしてその美貌にも惹かれていた。『書記』の新羅征伐の記述は長いこと韓国人の感情を逆撫でにしてきた。しかし「新羅征伐」の真相は反乱鎮圧のため持統が文武のために新羅に送った援軍のことだった。
 歴史の実情を知らないことは悲劇でもあり喜劇でもあるということをまざまざ(語源は韓国語のマジャマジャ、正解・ピッタリ・その通りという意味)と教えてくれる。

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