古くから日本を讃える言葉「蜻蛉島(あきづしま)」。「あきづ」とはトンボのこと。古くからトンボは鏃(やじり)を表した。鉄の鏃はトンボの体つきにそっくりだからだ。鏃は狩猟に、戦争に、なくてはならない重要な道具だった。
雄略天皇4年8月、天皇は吉野宮にお出かけになった。その時虻がさっと飛んで来て天皇の腕に食いついた。すると1匹のトンボがどこからともなく飛んで来て、その虻を咥えたまま飛び去った。天皇はトンボの真心ある行為をお褒めになり、即座に口ずさむような調子でお歌いになった。「…見よ、這う虫までも、こうして大君にお仕えしている。だからお前の形見はぜひ残しておこう。この国を蜻蛉島日本とと名づけると。」(『日本書紀歌謡75』)島=シマという語が「鉄(シ)の間(マ)」をあらわすことは当時の常識であろう。
百済第25代の武寧王(位501〜523)はそのものずばり「斯麻王(しまおう)」と呼ばれていた。シマがどれほど大事な存在であったかがよくわかる。百済第30代武王=舒明天皇は有馬や伊予に度々足を運んでいた。湯治に行ったと伝えられているが、有馬や伊予は鉄や銅が取れる地としても有名だった。舒明の歌、万葉集第1-2は古代の日本で製鉄が行われていたことが確認される歌といえよう。舒明こと武王は百済に帰る間際まで鉄作りに励んでいた物と思われる。