「オキナガ」は「港を出た人」。舒明天皇は百済武王と同一人物。舒明の和風諡号は「息長足日広額」。「日広額」には「刀広げ抜く」の意がある。舒明は港から船でどこかへ逃亡の過程で刺客に囲まれて殺されたのではないか。どの記録にも武王が弑逆されたとは書かれていない。しかし諡号は明かす。「恐ろしきかな諡号」である。
舒明のもう一つの顔である允恭天皇の和風諡号「雄朝津間稚子宿禰」は最高の山鉄の間の傍系の弟という意味だが、もう一つ「妻奪い男のお妾さんの子の小さき者」という義があった。舒明天皇の妻皇極の和風諡号「天豊財重日足姫」は「貴重な鉄の刃物を作って天空にたくさん貼り付け空ごと亡命する姫」。8世紀の女帝元正天皇の諡号は「日本根子高瑞浄足姫」。ヤマトネコは日本にやってきた伽耶系貴人の子孫に付けられている名前である。タカミズキヨのタカは高句麗、ミズは百済、キヨは挟まれての意の韓国語。元正天皇は8世紀の日本でなお引き続き覇権争いを繰り広げていた高句麗勢力と百済勢力の葛藤に耐えきれず、某所に難を避けた女帝であったことが読み取れる。皇極天皇=斉明天皇=宝皇女は最初高向玄理と結婚、漢皇子を産んでいる。
高向玄理は608年、遣隋使小野妹子について中国に留学し、舒明天皇12年(640)に帰国した。大化の改新(645)後、新政府の国博士に任じられた。647年に新羅使となって金春秋と共に帰国、金春秋は人質として日本にとどまることになった。白雉5年(654)遣唐使の押使として唐に赴き、長安で唐三代高宗に謁見するも、病気になり客死した。