舎人皇子(舎人親王)は、天武天皇の諸皇子の中で最後まで生き残り、奈良時代初期に高市皇子の息子長屋王とともに権勢を振るった。『日本書紀』編集の中心人物でもあった。
『日本書紀』天武4年11月3日のくだりに不思議な事件が記されている。宮の東の丘に誰かが登って妖言をし、自ら首を斬って死んだ。そこでこの夜の当直者にはすべて一級ずつ爵位をあげてやった…というのである。口止め料だ。
宮の丘に登って妖言したその誰かは「天武の皇后持統が文武の子を産んだ!」と叫んだのである。この年の2月持統は夫天武の長子である新羅の第30代文武大王を迎えるために、礼を尽くし自ら筑紫に向かった。九州の宇佐で神剣草薙剣(この剣は、金官伽耶国の建国者金首露の宝剣で、文武大王はその直系子孫の金庾信の甥である。金官伽耶滅亡の混乱の中で日本に持ち込まれていたものと思われる)を祀る大法会を開くためであった。宇佐神宮の祭神は応神天皇が神格化した八幡大神。応神天皇のモデルは文武大王(のちに日本の文武天皇となる)、息長帯姫こと神功皇后のモデルは持統だ。この祭神の組み合わせは、2人が宇佐で祭祀を行ったことを暗示する。また神功皇后が九州に向かったとされているのは持統が文武を迎えに行ったことを表している。文武大王の来日目的の一つは新羅国内の親唐クーデター鎮圧への支援要請もあった。持統は渋る天武を説き伏せて新羅出兵を敢行した。この経緯は、天武をイメージした「仲哀記」、持統をイメージした「神功皇后記」に詳しく記されている。
初対面で持統は恋に落ちる。文武は素晴らしい男だった。2人はたちまち結ばれ、たちまち妊娠。2月から数えて11月3日は十ヶ月目。280日になろうとしていた。持統はこの日文武の子を産んだ。天武はこの赤子に舎人という名をつけた。意味は「隣の王子様」。