さにつらふ君

2024年08月30日 11:14

683年危篤の鏡王女を見舞った天皇

 『書記』によると、天武天皇は朱鳥元年(686)9月9日丙午の日に正宮で崩御したことになっている。しかし実際の亡日は天武11年(682)9月10日。角鹿で高市皇子によって殺害された。天武死亡後、その死を秘して持統が執政する。内外の不安定な政治状況を乗り越え、3年の喪が明けた時初めてその死を公表する予定だったと思われる。ところが思いがけなく持統が妊娠し、天武は予定よりさらに一年遅れて「死ぬ」ことにされる。持統の娘が文武の子であることは公表できず、天武の末娘とするしかない。この天武の末娘とされた、実は持統と文武の娘多紀と結婚することになるのが志貴王子である。同父兄妹の結婚は具合が悪いということで、志貴は天智の子とされた。
 天武11年に殺害された天皇が「天武12年(683)7月4日、鏡姫王(鏡王女)の家に行幸して病を見舞った」とされているこれは一体どういうことなのか。天武天皇の影武者としての志貴の東での活躍…。とすれが鏡王女の見舞いにおいても志貴が天武の影武者を演じたのではないか。
 車持氏こと鏡姫王(鏡王女)の万葉集3811の長歌は 「さにつらふ君」という句で始まっている。「さ」は鉄、「に」は丹つまり赤を指す。「さに」は「鉄赤色」のこと。「つらふ」は「…がかって見える頬」。鏡姫王のかつての夫であり、不比等の父である天武天皇は赤髭の人であったということを証明する歌である。志貴は当時、3、40代であったと思われる。長く病を患っていた鏡姫王には志貴は天武その人に見えたに違いない。翌7月5日鏡姫王は波乱の生涯を閉じた。
 素性は謎に包まれていた鏡王女。しかし実は、百済第30代武王(舒明天皇)と新羅善徳女王の末の妹善花(ソンファ)公主との間に生まれた、貴種中の貴種、本物のお姫様である。天智と天武、そして藤原鎌足の3人と結ばれている。

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