670年代初め、天武(ヨン・ゲソムン)の影武者としての志貴皇子はおおいに活躍していたとみなされる。舞台は「東」。上野の国や下野の国と呼ばれていた関東地方の栃木、茨城、千葉、群馬県である。この広大で豊かな稲と鉄の地を、早くから占めていた高句麗、新羅系の移民たちは、かねてより持統と天武を支持する集団と思われていたが、それを確実にするための作業が必要とされていた。クーデター決起に忠実に従う約束、それに伴う武器作り、輸送船団作り、督促など機密を要する事柄をこなす人物は天武その人しかいない。
しかし天武の行動は天智側の近江朝廷によって制約されている。ここで影武者登場となる。志貴は父親似だったと言われる。おそらく20歳前半の若き皇子は50歳を過ぎた男の容貌に扮装し赤髭をつけ、(いや、もしかすると志貴も父親同様赤髭だったかもしれない。)5本の刀を佩用、言葉遣いや行動も物々しく振る舞ったのであろう。クーデターを控えて「溌剌とした天武」の誕生である。志貴王子は多くの優れた政治的歌を残している。天武宛の報告書とも言える歌の数々である。東歌は「詠み人知らず」であるが、内容からして志貴の歌と思えるのである。越の道君伊羅部比賣が生母という志貴(芝基、志紀、施基とも表記)皇子。ゲソムンが高句麗と越を往来していた早い時期に生まれた皇子が志貴なのだろう。日本におけるゲソムンの長男である。
志貴皇子の歌として最も有名な「岩走る垂水の上の早蕨の燃え出ずる春になりにけるかも」。早春の山の美しい情景が謳われているとされてきた。しかしこの歌は典型的な万葉集誤読の例である。蕨は水辺には生えない、日当たりの良い乾いた藪の中に生えるものだということを知らなかった都会育ちの万葉学者が誤訳したものだろう。