7、8世紀の北東アジアは、華やかな女王の時代だった。韓半島新羅の善徳女王(位632〜647)、その妹真徳女王(位647〜654)、日本の斉明=皇極天皇(位642〜647・655〜661)、中国唐帝国の則天武后(位690〜715)、日本の元明天皇(位707〜715)、元正天皇(位715〜724)、孝謙=称徳天皇(位749〜758・764〜770)。優れた女傑たちの時代だったとも言える。
持統天皇をなぜ外すのか。持統は天皇ではなかった。むしろ天皇以上の「皇后」だった。これを証明するのが『日本書紀』の神功記である。神功皇后は類まれな女性リーダー、実力者として描写されているが皇位にはついていない。あくまでも皇后なのである。
天皇以上の実権を掌握していたもう1人の皇后が、8世紀にいた。光明皇后こと藤原皇后である。聖武天皇の皇后であり、孝謙天皇の生母である光明子。天平宝字4年(760)、60歳で崩じた。聖武天皇の譲位後、孝謙天皇の後見役として、藤原仲麻呂を長官とする紫微中台にあって政治の実権を握ったとされる。後日、最高級の尊号を奉られた光明子とは一体誰か。光明子は新羅30代文武大王即ち文武天皇の娘である。母は新羅の大将軍金庾信の長男三光(道行)の娘、生粋の新羅人の、しかも最高位のお姫様だった。