日本書紀は神武天皇の即位をBC660年としている。この紀年が「神武天皇の紀元」とか「皇紀」とか呼ばれていて、明治以降、戦前まで広く通用していた。AD660年は百済が滅亡した年である。そして百済系女帝斉明は九州の朝倉宮で急死。皇位はこの年に大海人こと天武に引き継がれた。形式上の天皇は中大兄皇子の妹間人(中皇命=ナカノスメラミコト)だった。中大兄が近江で即位するのはその7年後、間人の死後である。その即位も正式なものではなく、669年中大兄は暗殺された。
神武は天武のもう一つの顔である。天武の実質的な即位は661年の辛酉であることを書記は強力に暗示している。天武天皇の前身は、高句麗の大将軍で大宰相莫離支の淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)である。ヨン・ゲソムンは事実上の高句麗王だった。強大な国であった高句麗は、度重なる唐の攻撃に疲弊していた。
優れた戦略家であったヨン・ゲソムンが豊かで防備しやすい島国日本に目をつけたのは当然であろう。大陸の東部から唐を完全に追い出すという遠大な策略のもとに高句麗を3人の息子に託し、664年ヨン・ゲソムンは完全に高句麗から引き揚げ、日本にやってきたものと思われる。668年高句麗はついに唐と新羅の連合軍に滅ぼされる。
高句麗の大宰相淵蓋蘇文も、その後身天武天皇も、栄華と権力を極めた英雄であったが、弱点はあった。そのアキレス腱は、高句麗でも日本でも「息子たち」であった。高句麗では3人の息子たちが対立し、結果長男が唐に走り高句麗滅亡の原因になった。日本では天武と親子の契りを結んだ、実は天智の子高市皇子を中心に、実子の大津皇子、草壁皇子、藤原不比等が造反し、天武は逃亡の途上で暗殺された。