釜石に「虎舞」という郷土芸能がある。生態的に昔から虎のいない日本に、しかも三陸沿岸の市町村になぜ虎舞があるのか、胸が騒いだ。虎の縞模様の衣装に身をくるんだ二人組が、太鼓、笛、鉦の賑やかな囃子のリズムに乗って、遊び戯れる虎の姿を表現した第一部「遊び虎」、漁師による虎狩りで暴れる虎を表した第二部「跳ね虎」、笹を噛む第三部「笹はみ」、の順で踊りは激しく展開する。
奈良正倉院の南倉には虎をかたどった楽舞用の被り物が保管されている。7、8世紀の宮廷もしくは東大寺で開かれた祭儀又は法要の余興として演じられた楽舞の中に虎舞があったことになる。当時の天皇は聖武、いわゆる「八っこ」こと濊系の天皇である。この時期に濊人のトーテムである虎を崇める祭祀があっただろうと想像される。虎つまり濊人が製鉄とともに強靭に生き抜いてきたパワーを表す踊り、同時に虐げられてきた者達の悲しい怒りの表現でもある虎舞は古い古い神事であったとみなされるのである。「八、夜、矢」と表記された濊人。釜石の古名「矢の浦」も「濊の浦」の意で名付けられたのではないか。北緯38度線の江陵(カンヌン)から津軽海峡に向け対馬海流が流れている。夏から秋の間にこの海流に乗れば、漕がずとも津軽海峡を抜け、太平洋を南下、三陸海岸に行き着く。三陸沿岸に今も多数残る虎舞の謎が解ける。