121 天武を殺した高市皇子は左利き

2024年06月29日 20:13

高市の天武殺しすなわちこれ桃太郎の鬼退治なり

 天武11年(682)8月3日夜、反乱軍蜂起の報に接し、天武は明日香を脱出、近江を経て角賀(敦賀の古名)に入る。668年に滅亡した高句麗の遺民たちがかつての高句麗将軍大祚栄の下、今の中国東北部の敦化一帯でその勢力を伸ばしていた。高句麗の大宰相であった天武天皇(淵蓋蘇文)は敦賀から船で敦化行きを企てたのだろう。
 しかし反乱軍のリーダー高市は一足先に敦賀に到着、この地の長伊奢沙別を味方につけて天武の救援部隊を撃破、貴賓室の天井の梁の上に登り隠れる。そこへ天武が現れる。天武が梁の下に来た時、高市は「やぁ!」と叫んで飛び降り、持っていた刀で天武を切る。高市の天武殺し、つまり「桃太郎の鬼退治」である。天武があえなく最後を迎えたこの客館跡に気比神宮が建てられたのであろう。
 高市は半開きの扇子で心臓部を防御しながら、左手に持った刀で天武を切り倒した。これを裏付けるのが愛知県豊田氏の猿投神社にびっしり奉納されている左鎌である。猿投神社は景行天皇(天智)の第一皇子大碓命を主祭神にしている。大碓の双子の弟は小碓、つまり他ならぬ日本武尊である。日本武尊=小碓=高市皇子=桃太郎は兄大碓を無惨に殺している。猿投神社には勝者の武器「左鎌」が奉納されているのだ。高市は世間から「唐小僧」とも揶揄されて来た。淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)の日本での天皇即位を阻めなかった中国唐帝国は二代李世民の宿敵であったヨン・ゲソムンを倒すために高市を利用したのだ。親唐派であった天智の息子である高市は打倒天武に燃えていた。百済の皇子=百太郎(ももたろう)。結局は天皇になれなかった父天智に代わって高市は百済系の天皇を復活させた。

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