百済第30代武王(允恭天皇、舒明天皇)の死後、百済王室に内紛が起こり、翹岐(ヒョーギ)皇子=中大兄皇子とその母沙宅武王妃(寶王女、皇極天皇、斉明天皇)、同母妹間人王女(中皇命)、異母妹鏡王女、沙宅妃のブレーン額田王、他高官40人余が島(日本列島)に追放された。
日本の当代随一の権力者蘇我蝦夷は畝傍山の自身の邸宅に翹岐を招待し親しく対話、良馬一頭、鉄鋌20丁を贈っている。前年11月百済で死んだという高官大佐平の沙宅智積がこの年7月皇極天皇に招かれて饗宴に参加している。しかも智積は宴を終え、宮廷から退出してから翹岐の家に行きその門を拝んでいる。そして新嘗の儀式が行われた11月16日、皇太子がいきなり書記の皇極紀に登場する。中大兄皇子である。
木梨軽皇子(中大兄)とその双子の妹で絶世の美女軽大娘(間人)が近親相姦事件を起こしたのは、允恭天皇の死の直前か直後だったのではないか。相手構わず誰とでも性交することをダ(全部)バッケ(刺す)と呼んだ。これが日本語たわけの語源だ。同母兄妹の近親相姦は固く禁じられていたので、百済の義慈王(翹岐の兄)との後継者争いが起こり、百済を追放されたのであろう。当時総理大臣であった沙宅智積も事件の責任を取る形で「死んだ」ことにして日本に亡命したのではないか。智積の日本名は中臣鎌子連、後の藤原鎌足である。
『日本書紀』では允恭天皇の皇后の妹、『古事記』では皇后の娘軽大娘となっているのが衣通姫(そとおりひめ)である。衣通姫の名の由来は、その美しさが衣を通って外に輝き出たが故という。つまり絶世の美女である。『記』では太子の木梨軽王が、禁じられていた同母妹の衣通姫との近親相姦によって支持を失い、道後温泉の地に移され、後を追って来た姫と共に自害するという結末になっている。