百済武王=舒明天皇=允恭天皇だとすれば允恭天皇の父は仁徳天皇とされているので仁徳天皇=百済法王(武王の父)という構図が出てくる。『隋書倭人伝』には倭王は聖徳太子で、姓は阿毎字は多利思比孤(タリシヒコ)であったと記されている。タリシはダリシ(鉄煉り、製鉄)ヒコはビコ(祈る男、男性祭祀者)に通じる。
法王は百済第29代王だが、正味半年しか在位していない。その半年間に彩色豊かな法興寺を建立した。30名の僧を置いたとされる大伽藍である。『伊予国風土記』の逸文は聖徳太子と高句麗高僧恵慈、葛城臣らが伊予熱田津の温泉(四国松山の道後温泉)に来たことを伝えている。法王は当時日本と百済を繁々と往来していたのではないか。漢文古碑には「法興6年10月我が法王大王と恵慈法師また葛城臣は夷与の村に逍遥、神の井を観て世の妖しき験を嘆きたまいき」と刻まれている。法王大王は百済の法王を指しているのではないか。百済の法王は、半島と日本を結ぶ軍事的要衝地であり、鉄、銅、錫を主成分とする鉛合金などを大量に産出する伊予を、早くからしっかり押さえていたものと思われる。
仁徳天皇も百済法王も聖徳太子も謎の人である。特に聖徳太子は実在していないというのが今日のほぼ通説になっている。血で血を洗う権力闘争だった壬申の乱で勝利した天武天皇が「厩戸王」に注目し、彼と同時代に行われた数々の業績を誇大評価、これらの偉業を成し遂げたという「聖徳太子」を作り上げ天皇の正当性を再認識させようとした、と考えられている。