日本における鉄の主導権を伊奘冉(イザナミ)に奪われ、伽耶に追われた伊弉諾(イザナギ)は、伽耶諸国をはじめ新羅、高句麗の鉄王たちと連携し、ヘゲモニーを取り戻そうとしたが、同盟はついにならず、まとまらなかった。各々素晴らしい鉄の文化を持ちながら次々と新羅に併合されたり滅亡したのは、伽耶諸国に一つにまとまる凝集性がなかったせいである。
伽耶諸国はまとめて「豊」と称された。「豊かな一束」の意で呼ばれたのであろう。古代の日本に「豊のあかり」という夜の宴があった。持統天皇がしきりに催したオールナイトパーティである。日本における伽耶勢の一致団結が最も大事であると持統は判断した。濊系の持統は、未来を見る識見を備えた類稀な女性大政治家であった。「八」と呼ばれてきた濊は、奇しくもその象徴文字が示す通り常に二つに分かれ対立の構図を形成してきた。国産みの華麗な権力の座を追われ、奴、奴っこ、野郎、矢の者、谷の者(江戸時代の賎民の呼称)、やん衆などと呼び捨てられて来たその底辺には、自己分裂の痛ましくも嘆かわしい歴史が重ねられていたのである。また濊は早くから東の特に関東のシマに進出、江戸時代の原住民になったところから、彼らの気質や言葉がそのまま江戸っ子に受け継がれた。
文武天皇の701年、刑部親王や藤原不比等らによって、大宝律令が完成し、律令政治のしくみがほぼ整い、神祇官と太政官のニ官、その下に八省が置かれ、かつ民を良と賎に区別したことを持って古代が終わった。万世一系の天皇制は、天皇家の正当性を必要とした渡来人によって作られ、守られて来た。