115 聖武天皇の父は柿本人麻呂

2024年06月09日 09:25

母宮子に初めて対面したのは、聖武天皇が36歳の時だった

『律令国家の展開』(角田文衛)
 「 …文武天皇と正室石川刀自娘との子供、石川広成・広世から皇位継承権を奪うため、無実の2人の女性(石川刀自娘と紀竈門娘)を貶黜(へんちゅつ)させる陰謀が巡らされた。陰謀者は他ならぬ藤原不比等である。石川朝臣は当代随一の名門蘇我氏に他ならず、門閥の高貴さにおいては新興の藤原氏を凌駕していた。現に持統、元明両女帝も石川朝臣の出であり、不比等自らも石川朝臣娼子を正妻(武智麻呂房前の母)に迎え、この古来の名門との婚姻で自家の毛並みを整えさらに蘇我氏の残した政治的地盤を大いに利用したのである。…ニ皇子の皇籍離脱により最大の利益を得るのは第一に首皇子であり、その母宮子であり、第二に
宮子の父右大臣正ニ位藤原不比等である。すなわち結局陰謀の主役は不比等であり、その継室県犬養宿禰三千代であったと想定せあるをえないのである。…」
 陰謀成功後の翌年、和銅7年6月早々に首皇子立太子が元服の式を兼ねて行われる。首14歳の時である。首の父柿本人麻呂が殺されたのはこれより6年前和銅元年4月のことだった。人麻呂は文武の死の直後に不比等によって殺された。首の母藤原宮子は首出産後、心的障害に陥りその後は長く首に会うことはなかった。宮子は人麻呂との不倫の子首を産んだことにより重いうつ病に陥ったのだ。その病は737年やっと平癒し首と36年ぶりに対面した。そして孫阿倍内親王(孝謙女帝)が即位した749年には太皇太后の称号を受け、754年崩御した。なお、病気回復の時に関わった僧が玄昉であり、橘諸兄の下で玄昉が権力を振るったのは、この功績によるものと考えられる。

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